「令和でも語りたい昭和な人たち」#16 元祖下剋上指揮官 西村徳文 PartⅡ
2026.1.20
西村徳文(c)SANKEI
ロッテ、オリックスの2球団で監督を務めた西村徳文さん(66、以下敬称略、ニシと呼ばせてもらいます)と筆者が、1959年度生まれの"同い年"であることはPartⅠでお伝えした。
そしてニシがこの年代でたった一人の"NPB監督経験者"であることも。
1959年世代には、ニシ(盗塁王4回、90年首位打者)以外にもタイトルホルダーが何人か存在する。
著名なところでは、小松辰雄投手(中日=85,87年最多勝、85年最優秀防御率、85年最多奪三振)、川口和久投手(広島―巨人=87,89,91年最多奪三振)、屋敷要外野手(大洋―巨人=86,87,88年盗塁王)、山沖之彦投手(阪急、オリックスー阪神=87年最多勝、83年最多奪三振)。
田村藤夫(日本ハムーロッテーダイエー=93年ベストナイン、ゴールデングラブ賞)、平田勝男(阪神=84,85,86,87年ゴールデングラブ賞)、池田親興(阪神―ダイエーーヤクルト)、鈴木康友(巨人―西武―中日―西武)らの活躍を覚えている方も多いのではないか。
一学年上には甲子園のアイドルだった原辰徳さん(東海大相模―東海大―巨人)がいたが、我々の世代にはそのような選手はいなかった。1959年世代が高校3年生だった77年の夏を制したのは、快速左腕・松本正志投手(阪急ドラフト1位)擁する東洋大姫路。
決勝の相手は東邦で、エースは1年生の坂本佳一。そう"バンビ坂本"だ。この1年生が"バンビ・フィーバー"を巻き起こし、3年生の影は薄かった。
そんなどちらかと言えば"地味"な世代の中にあって、ニシの高校時代も決して華やかなものではなかった。
快足とセンスあふれるプレーが複数の強豪校の目に留まり勧誘されたが、「知らないところでやりたくない。そうまでして野球をやろうとは思わない」と地元宮崎の福島高校に進学。
2年時の76年夏に同校初の甲子園に出場したものの、2回戦(初戦)で高田商の前に敗退。「1番、セカンド」で出場したニシもノーヒットに終わった。
それでも前年の1年夏は、県予選で5回コールド初戦敗退だったことを考えれば甲子園出場は快挙と言っていい。その裏には、その後のニシの人生を左右する大きな出来事があった。
1、2年生部員がコールド負けの屈辱を晴らそうと秋の練習に汗をながしていた頃、ニシは野球部を退部した。「バイクですよ。バイク。同級生たちは放課後になると、みんなでバイク乗ったりして楽しそうにしてる訳ですよ。
野球部はと言えば、きつい。自分はこんなきつい思いしてるのに、あっちは楽しそうでいいな、って思う。だから、同級生のバイクを借りてバーッと外を乗り回したりしてね。よく捕まらなかったな、と思いますよ」。
そんなニシを野球部の同級生は放っておかなかった。「監督の指令かどうかはわかりませんでしたが、みんなで僕のところに来て"いいから戻って来い"、と。そんなこと言われてもバイク乗りたいんだけどな、と思いながら聞いていました。
でも、昔からの仲間がそこまで言うなら一度戻ってみようかと。1日だけ戻ってみよう、となりました」。
その翌日、練習に参加した。2週間ほど練習から遠ざかっていただけに、ニシとしてはとてもばつが悪い。だから決めていたことがあった。
「"何してたんだ"とか"よく戻って来られたな"みたいなことを言われたら、もう本当に辞めようと」。ところが2年生を含め、誰一人そんなことを言う部員はいなかった。
「逆に"よう帰ってきたな"みたいなことをみんなが言うから、もうしゃあないな、野球続けるしかない、と決めたんです。この人たちのために一緒にやるしかないと思ってやったのが、次の年の甲子園につながりました」。
この仲間たちとの関係が、ロッテ監督時代のチームスローガン「和」につながる。
卒業後の進路は、就職一本に絞った。野球を続けるつもりは全くなかった。国鉄マンを希望していたが、高卒で入るのは難しいことを聞いていた。
そんな時、野球を続ければ入社の可能性があることを知らされる。そして同校OBで鹿児島鉄道管理局野球部の先輩の口利きでセレクションを受け、見事に合格。またニシは野球を続けることになった。
「ほぼ野球採用者も決まっていて"見るだけは見よう"みたいなことを聞いていたから、絶対受からないと思ってました。
国鉄に入ったのはうれしいけど、野球部に入るのはうれしくない。仕事は8時半に出社して11時に終わるんです。その後はずっと練習ですよ。こんなところに来るんじゃなかったと思いましたよ」。
すぐにでも辞めるつもりでいたら、3年目に入るとニシ目当てでプロのスカウトが来ていることを知らされた。
結局、4年目のシーズン後にロッテから5位指名されるのだが、プロに行くつもりは全くなかった。スカウト来訪の話も「うそだろう」くらいにしか思っていなかった、という。
「もう僕の中では、野球部で2、3年やったら終わって国鉄の仕事をすればいい、と人生設計してたんです。そっちの方が面白いですもん」。
だから指名された時の気持ちは「また野球を選択しないといけないのか」だった。こんな野球選手いるのか、というくらい珍しいのではないだろうか。
もちろんニシもご多分に漏れず、小学校の卒業文集には「将来の夢はプロ野球選手」と綴っている。「なれないとは思っていたけど、夢はね。そして、そういう気持ちはだんだんなくなる訳ですよ。もう別に入りたくなかったし」。契約金は2500万円。手取りは1900万円ほどだった。
「3年くらいで辞めて、この金で何かすればいいや」。プロ入りしても、そんなことを考えていたニシに、人生を変える出来事が訪れる。
ドラフト会議前の9月の大会で右肩を故障していたニシは、春先の教育リーグを欠場して1か月ほど治療に専念していた。復帰して臨んだ二軍戦で、ニシが凡打してベンチに戻って腰を掛けると後ろから声が聞こえてきた。
「誰や、こんな選手連れてきたのは」。
声の主は、当時の高木公男二軍監督。「口の悪い人だったんですけど、とにかくカチンときて。初めて野球でくそっと思いましたね。
何か自分でもわからないけど、それから野球に対する気持ちが全く変わりました。スイッチが入ったんでしょうね。もう別人になりました」。
1年目のオフにスイッチヒッターに挑戦。「あの言葉を思い浮かべるわけですよ。俺は絶対に負けない、って」。厳しく、苦しい練習の日々も屈辱のシーンを思い出して力に変え、主力選手へと駆け上がっていった。
「辞めたい、辞めたいとしか思ってない人間が、いいも悪いも人の影響を受けて、頑張ってここまで来られた訳です。他の選手の考え方、生き方とは全然違うでしょ」とニシが筆者に向かって言うので、大きく頷いた。
「辞めたい」と思えば思うほど、野球に引き寄せられてきた人生。バイクに夢中になり一度は野球部を退部した男が、世代でたった一人のNPB監督であることは、親近感を感じると同時に少し地味だけど「導かれた男」に思えてならない。
独立リーグ・九州アジアリーグ「宮崎サンシャインズ」のGMとして、すでに動き出している。
「やっぱり、こういう経験をしているから独立リーグでも同じ野球じゃないか、変わらないじゃないか、という考えになれると思うんですよ。とにかく選手が希望を持てるような、そして宮崎の皆さんに応援してもらえるチームを作ります」。
ニシは1月9日で66歳になった。世代の代表として、まだまだニシらしく手腕を発揮してもらいたい。
テレ東リアライブ編集部 E.T(新聞、テレビでスポーツ現場30年のロートル)