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昭和23年3月、元東海軍司令官・岡田資中将は、B級戦犯としてスガモ・プリズンに入所していた。
日本国内における戦争犯罪と見なされた事件については、横浜地方裁判所が法廷として用いられた。
岡田中将とその部下に対する起訴理由は、捕虜となった38名の米軍搭乗員に対し正式の審理を行わず処刑を行った、ということであった。岡田中将をはじめとする被告人20名のうち、15名は斬首処刑の執行者であった。 |
主尋問がはじまるまでの約1ヶ月ほどは、証人への尋問が続いた。
検察側は、略式手続きは不当で、岡田中将の行為は殺人である、との証言を引き出した。
対して弁護側は、死刑された搭乗員はジュネーブ条約の定める捕虜ではなく、無差別爆撃を行った戦争犯罪人であると主張した。 |
岡田中将は、略式裁判の正当性を訴える。「われわれは日本の歴史と運命を共にしなければならない、これが東海軍全体の考えであった。しかし米空軍は優勢で、まったくのその日暮らしを送っていたので、翌日のために計画を作ろうにも見通しが立たなかった。日々、直面している問題について、第一総軍の指令を仰ぐことは不可能であった」
中将は法廷闘争を法による戦い、「法戦」と名づけ、飽くまで戦い抜こうと考えていた。
3日目の公判で、彼は「責任の筋を辿って行けば、司令官たる私の方へ来る。司令官は、その部下が行ったすべてについて、唯一の責任者である」と発言した。
この頃から、彼の態度、言葉によって、全面的に責任を取ろうとしていることが明らかになってきた。 |
弁護側主尋問が修了した夜、スガモ・プリズンの浴室内には、“故郷”を歌う声がこだましていた。若者たちは、岡田中将と一緒にいる喜びに満ち、いまだ公判中でありながらも笑顔が浮かんでいた。
4日目の公判。結婚式を1週間後に控えた、岡田中将の長男・陽とその婚約者・純子が現れた。二人の結婚した姿を傍聴席に見せて安心させたい、という家族の思いやりでもあった。フェザーストン弁護人は、法廷の合間に、若い二人が寄り添う愛らしい様子を身振りでしめして、みなを笑わせた。弁護人と中将の間には親愛感が生まれていた。法廷内をゆっくり歩き回りながら弁論する堂々たる態度。余裕のあるそぶり。彼が弁護人であることに、岡田中将の妻・温子は深く感謝した。連日、傍聴席で中将の姿を見つめる家族、そして最愛の妻・温子の存在。言葉を交わすことは許されないが、笑いを交換するだけで、岡田中将にとっては非常に心強いものであった。
バーネット検察官は2ヶ月間、執拗極まる敵だったが、一面で時々紳士らしい姿も見せ、時にはアッと思うほど岡田中将に有利な論告をした。中将の証言は、20日の午後以来、中2日の週末の休廷をはさんで、既に7日に及んでいたが、答弁に少しの乱れも見せてはいなかった。5人の裁判委員、3人の検察官の面々とも、質疑の要領が分かり、親愛感が湧いているように思えた。その日、中将の長女・達子が、赤ん坊を抱いて入ってきた。万感の思いで赤ん坊を抱く岡田中将を見詰める検察官、弁護人、そして裁判長。
東海軍の公判は結審となり、5月19日、判決が申し渡された。
判決、岡田資、絞首刑――。
岡田中将は軽くうなずき、5人の裁判委員を見上げる。
手錠を掛けられ左右に寄り添うM・Pと退場する彼は、法廷を出る間際、接近しえた温子へと告げた。
「本望である」 |
なすべきことは、なし終わった――。
処刑の前々夜、中将は妻・温子にこう書き遺す。
「温子よ、短い様で永い、又永い様で短い此世は、そなたにはえらい世話になったね。御礼の言葉もないよ。そなたの誠実さと私に対する純愛は、公人としての私を十二分に働かせしめた。余生尚有れば、十二分に老妻をいたわってと想うて居たが、今は私の強い業力思念を以て御護りする事に致しませう。家族も一同も共に、共に……私は今、久遠の命を確信しています」
その晩は、月夜であった。中将はブルー・プリズンから、13ゲートまで、手錠をかけられた手に数珠を持ち、両側を監視兵に挟まれて行く。刑場の扉の前、「御機嫌よう……」
そう言って、扉の光の中へシルエットとなって消えていった。
昭和24年9月17日、午前零時半であった――。
(C)2007『明日への遺言』製作委員会
配給:アスミック・エース |