遠藤保仁と中村憲剛「移籍」と「引退」信念を貫いた二人の決断

元日本代表MFの遠藤保仁と中村憲剛。日本サッカーを長年にわたって牽引してきた2人が40歳を迎えた今年、大きな決断をした。移籍と引退だ。遠藤は長年プレーを続けたJ1のガンバ大阪からJ2のジュビロ磐田へシーズン半ばに期限付きで移籍。一方、川崎フロンターレ一筋で歩んできた中村は今シーズン限りでの現役引退を決めた。
Jリーグや日本代表で活躍してきた二人が大きな転機を迎えた今、キャリアを振り返り、抱いてきた思いを語った。
この選手がいると試合への期待が膨らむ。一本のパスで試合の展開を変え、ゴールを演出し、セットプレーからの得点もある。遠藤保仁と中村憲剛は、そういう違いを生み出す選手だ。
その二人は揃って1980年生まれで、今年40歳になった。遠藤はガンバ、中村は川崎で長年クラブの顔として存在感を発揮してきたが、プロとして表舞台に立つまでの過程は対照的だ。早くから注目を集めたサラブレッドと、無名の努力家とでもいうべきか。
遠藤は、二人の兄とともに幼少よりサッカーに親しみ、実力校として知られる地元の鹿児島実業高校で1年の時に全国高校選手権に優勝。高校卒業とともに1998年にJリーグの横浜フリューゲルスに入団した。
アトランタ五輪で活躍したMF前園真聖やブラジル代表でもプレーしたエドゥら攻撃的なタレントが揃い、「楽しいサッカーをするな」と見ていたチームで、遠藤はルーキーながらマリノスとの横浜ダービーでの開幕戦に先発出場でプロデビューを飾る。
だが、その年の終わりにフリューゲルスはスポンサー撤退で解散となり、遠藤は京都サンガへ移籍。その後、2001年にガンバ大阪からのオファーを受けて、再び移籍した。当時のメンバーを見て「若くていい選手が揃っている。経験を積めば3、4年後は必ず強くなる」と確信しての決断だったという。
そこから約20年、遠藤はガンバの中心的として活躍し、手にしたタイトルは2008年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)制覇、2014年のJリーグ、天皇杯、ナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)の3冠達成など12を数える。2014年にはJリーグ年間最優秀選手賞も受賞した。
記録もある。今年7月には、セレッソ大阪戦でJ1通算試合出場数を632としてJリーグ新記録を達成。その後10月に磐田へ移籍するまでに、さらに9試合を加えて641試合まで更新した。
日本代表では、「黄金世代」と呼ばれたU-20代表の一人として1999年のワールドユース選手権(現・U-20ワールドカップ)に出場して準優勝。その後、ジーコ監督の下で2002年11月にフル代表デビュー。だが、存在感を発揮するようになったのは2006年に就任したイビチャ・オシム監督の時で、そこからは病で退任したオシム監督の後任の岡田武史監督の下でも中心的存在として定着。
2010年ワールドカップ、次のアルベルト・ザッケローニ監督の下で2014年ブラジル大会にも出場した。代表戦出場は歴代トップの152試合を数える。
遅咲きの中村憲剛
早くから活躍の舞台を得てきた遠藤に対して、中村は遅咲きだ。大学卒業まで無名の存在だったが、Jリーガーになることを諦めきれず、大学4年の6月、当時J2だった川崎に練習生として自らアプローチした。
サッカーを始めたのも小学校1年で早くはない。その後は都立久留米高校を経て中央大学へ進学し、大学4年の時に主将として関東大学リーグ2部優勝を遂げて、1年で1部復帰を果たしたが、選手として特に注目されるようなことはなかった。
だが、川崎での練習生参加を足掛かりに2003年に入団に漕ぎつけると、中村はサッカー選手としての道を切り拓いていく。1年目の3月にJ2開幕戦でプロデビュー。背番号は26だった。
それが2年目から現在の14に変わり、ポジションも変わった。当時の関塚隆監督が、技術と判断力、強い縦パスをと考えて、トップ下からボランチへコンバートしたのだが、それが中村に新たな扉を開くことになった。
「ボールにたくさん触れて自分で展開を考えられる。おもしろいポジション。天職だと思った、守備以外は」と中村は振り返り、「五本の指に入る転機だった」と語る。
そして、J2優勝でJ1へ昇格を手にしたチームは、2005年からJ1に戦いの場を移す。その後は早々に上位争いに絡むようになるが、タイトル獲得には一歩及ばず、カップ戦を含めて2位で終わることは7回を数え、「シルバーコレクター」と呼ばれた。中村はチームの中心選手の一人として責任を感じ、悩んだ時期でもあったという。
そして32歳で再び転機を迎える。選手としてワールドカップも経験して「自分でも出来上がっているな」と感じるようになっていた頃、2012年に風間八宏監督が就任。新指揮官に初日から技術の甘さを指摘された。
目指すべきことがあることを再確認した中村は、そこからプレーに磨きをかけることに腐心すると、自身もチームも上向いていった。自然と、引退の年齢も当初考えていた35から40へ先延ばしになったという。
そして2017年。クラブOBの鬼木達監督の就任1年目にチームは悲願のJ1優勝を遂げ、翌年には連覇を達成。そして今季は史上最速を含めて多くの記録を作りながら、2年ぶりに3度目のJリーグ王座に就いた。2019年にはルヴァンカップ優勝も経験し、この4年間は毎年何かのタイトルを手にした。
その間、中村は2016年にはJリーグ年間最優秀選手賞を受賞。通算試合出場はJ1で458試合、J2で75試合、カップ戦やACLを含めると18年間で666試合に出場し、チームをけん引した。
日本代表では25歳だった2006年10月にデビュー。それ以降、2007年アジアカップや2010年ワールドカップ、2013年コンフェデレーションズカップなど68試合に出場した。
ゼロから尊敬へ
遠藤と中村。対照的な歩みをしてきた2人だったが、初めて対戦する時がきた。2005年4月、J1へ昇格した川崎がアウェイの万博競技場に乗り込んだ第3節のリーグ戦だった。
中村にとってはJ1デビュー戦となった試合で、先発フル出場したのだが、「盤面で転がされていたイメージ」で川崎は2-3で敗れた。対戦した遠藤については、「この人を超えていかないとA代表には入れない」と強い衝撃を覚えていた。ところが、一方の遠藤は「全然覚えていない」という。
だがそれも、中村が繰り出すパスでFWジュニーニョがゴールを量産するようになると、遠藤の中村に対する認識が「ゼロ」から「いい選手だな」と変化。「心からサッカーが好きで楽しんでいな」と見るようになったという。
そして、次第に存在感を増した中村が2006年、オシム監督の下で日本代表に選ばれると、ともに国際舞台で戦うことになる。
遠藤は、日本代表での中村とのプレーを思い出して「『こうしたいな』という時にそのプレーをしてくれた。憲剛とは、いいコンビネーションでできていたと思う」と語り、「一発のパスでゴールに直結するプレーをする。後ろから見ていて非常に頼もしかった」と振り返る。その後、二人は2010年ワールドカップではともに戦い、日本のベスト16入りに貢献した。
中村は、常に自分の先を歩んでいた遠藤には「今でも緊張する」と苦笑いだが、遠藤のプレーを「子どもたちは見るべき。立ち方やものの動かし方は、どのカテゴリーにも通じる。簡単にはまねできないけど」と指摘して、その質の高さを称賛。
「サッカーを全体で捉えるのがすごく上手。お互いの思考を読み合う対戦ができた、数少ない選手だったので、毎回対戦が楽しみ」と語り、常に刺激を受ける存在だという。
互いに同じポジションで高い技術と戦術眼に裏打ちされたプレーを披露し、チームで大きな存在感を示す。二人の言葉には、互いへの尊敬が見える。
信念を貫いた二人
その二人が今シーズン、大きな決断を下した。
遠藤は約20年プレーしたガンバ大阪からJ2のジュビロ磐田へ移籍。選手として据えている「自分が心からサッカーを楽しめるか」という、フリューゲルス入団当初から持っている自分の信念を貫いて、新たな環境に飛び込んだ。
遠藤保仁 写真:長田洋平/アフロスポーツ
ガンバで出場機会が減っていたことから、プレーできる場所、楽しめる環境、新しいチャレンジを求めた結果、J1昇格を目指すジュビロが新天地に選んだ。「まだまだ自分でやれると思っているし、自分のプレーには自信がある」と決断した。
移籍後、10月10日の松本戦から13試合連続で先発出場を含めて15試合に出場。中盤での圧巻のコントロール力を示し、周りの選手を活かしたプレーを展開すると、チームが活性化。ジュビロの試合は大きく変わり、移籍当初12位と低迷していたチームは6位まで順位を上げた。J1昇格にこそ届かなかったが、来季へ期待を感じさせるシーズン終盤になった。
一方、中村は40歳を迎えた翌11月1日、今季限りでの引退を発表した。
2019年シーズン終盤に見舞われた、サッカー人生初という膝の大怪我を克服して、選手としてトップフォームで復帰を果たした上での引退宣言だった。
中村憲剛 引退セレモニー 写真:長田洋平/アフロスポーツ
「もったいない」「まだやれる」という声が大きく響く中、川崎の背番号14は、35歳で決めていたという「40歳引退」を貫いた。
そこには、中村なりの美学がある。しかも、引退発表会見での「川崎フロンターレを引退する」という表現は、このクラブ一筋でやってきた選手ならではの思いがこもる。そして、一つのクラブで自分の志を貫いたことを「僕の最後の5年間を見てくれれば、みんな納得してくれるのでは」と胸を張る。
「自分の可能性に蓋をしない」と言い続け、向上心をバネに歩み続けて、「今」を手にしたことへの自負と満足もにじむ。
「現役続行」と「引退」という対照的な決断だが、2人とも自らの信念を頑固なまでに貫くという点では変わらない。そこも、それぞれを日本サッカーの顔にまで押し上げた、2人の持つ「強さ」と言えるのかもしれない。
中村は、「今度は僕が誰かの背中を押す人になりたい」と言い、今後は指導者も念頭に日本サッカーへの自身の経験の還元を目指したいと語る。
そんな中村へ、遠藤は「今後どこかで会うだろうから、その時は『コーチ』と呼ぶことにする」と励ましの言葉を送り、中村は「ヤットさんには頑張ってほしいと心から思う」と、ピッチに立ち続ける遠藤へエールを送った。
大きな決断を経て歩み出す二人の今後が楽しみだ。