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この物語は不思議な“パワー”を持つ女性、ヴィアンヌ・ロシェの登場によってはじまる。
フランスの小さな村“ランスクネ”で、このミステリアスな女性が開いたチョコレート・ショップは魅力的なお菓子で人々の舌を魅了し、失った希望を癒し、忘れていた感情を呼び覚ましていく。
ヴィアンヌの影響は即座に広がる。老人は若き日の恋を思い出し、倦怠期の夫婦は愛の炎が燃え上がり、いがみ合う隣人たちにさえ友情が芽生える。ところが彼女のチョコレートがもたらした影響はそれだけではなかった。情熱を求める感情とモラルとの間で、葛藤が激しさを増していった。
快楽を享受する人々がいる一方、高潔なレノ伯爵に率いられて厳格に戒律を守ろうとする人々もいた。伯爵はヴィアンヌを“社会最大の敵”と標榜する。ヴィアンヌがくじけそうになったとき、ハンサムな流れ者の青年ルーが現れる。思いもかけないこの出会いが、彼女に、敵意を抱く人々から逃げ出すか、はたまた村の人々に真の変化をもたらすために戦い続けるのかという決断を迫る。
抑圧のない人生を賭けて繰り広げられる自由人ヴィアンヌの戦いは、絶賛を受けたジョアン・ハリスの小説「ショコラ」に描かれている。チョコレートが快楽を解放する力のメタファーとして使われる大胆な発想は世間をあっといわせた。この物語に魅了された人々の中にラッセ・ハルストレムがいた。ジョン・アーヴィングの小説「サイダーハウス・ルール」を映画化した前作で、アカデミー賞5部門ノミネート、2部門受賞など、批評家から大絶賛を受けたばかりのハルストレム。彼は、このユニークな物語の核心が、一風変っており予想出来ない、人々の心のふれあいに対する讃歌であり、彼自身が描き続けてきたものと同じであることを感じ取った。ハルストレムはまた、この物語が人生の“美味しい”瞬間を探し求める点、そしていかに失意の日々から人が立ち直るかを描いている点にも惹かれた。最終的に彼は、快楽にふけることを許容するだけではなく、人間の弱点や気まぐれを大きく受け入れる“寛容さ”を求めることこそこの物語が伝えるテーマであるとした。
ハルストレムは語る。 「私にとって『ショコラ』は誘惑に関するおかしなファンタジーであると同時に、人生の中で出会う楽しい瞬間を否定しないことの大切さを説いた物語でもある。これは人生を通して絶え間なく起こる伝統と変化の衝突の物語だ。そこではまた、他人にその生活や信条から抜け出すことを許さない“不寛容な生き方”の帰着が描かれている」
彼は特に重層的な構成に惹かれた。ファンタジーのような不思議さがありながら、結婚の失敗から家族のすれ違いまで、人間的でリアルな感情を持った人々が次々と登場する。「この物語が持つ要素の幅広さに興味を持った。ドラマチックでコミカルかつ滑稽。詩的なこの楽しいファンタジーは、単に登場人物のポートレイトを描くだけでなく、彼らのリアリティに深く根差している。お気づきかもしれないが、つくってきた全作品を通し、人間の不条理について驚きと感動をもって描くことに魅せられてきた。本作はまた別の人間の奇抜さを探る機会を提供してくれた。登場人物はみな矛盾に満ち、だからこそ人間味に溢れており、私たちの心に入り込んでくる。主人公のヴィアンヌは自由人だが、同時に運命の囚われ人でもある。宿敵レノ伯爵は厳格な規律の統制者であり、また同時に因習の囚われ人でもある。伯爵は常に周囲に目を光らせ、罪人や間違いを見逃さない。ヴィアンヌは許されるべき欠点も含めて人間そのものを受け入れる」
『ショコラ』に携わった全員が口をそろえて言うのは、ハルストレムの参加が本作成功の絶対の鍵だということ。製作のキッド・ゴールデンは語る。「デイヴィッド・ブラウンと私は、初めて小説を読んだ瞬間に監督はラッセ・ハルストレム、主演はジュリエット・ビノシュと確信した。その両者を迎えられたのは、まさに夢の実現だ」
製作総指揮アラン・C・ブロンクィストも言う。「様々な登場人物に命を吹き込むハルストレム監督だからこそ、この物語は申し分ないだろうと、誰もが思った。この物語は誘惑に身を委ねることを認め、新しく生まれ変わっていく人間たちの群像を見事に描き出している」
製作のデイヴィッド・ブラウンは付け加える。「『ショコラ』は素晴らしい特質に溢れている。深みのある人間性豊かな登場人物と、それを包み込む魅力的なパッケージ。
他にはない物語であり、特にファンタジーでありながら、真実を語っているところが秀逸だ」
脚色のロバート・ネルスン・ジェイコブズは執筆の際、現代まで伝わる魔術や神話などチョコレートの歴史を徹底的に調べ、どんどんチョコレート中毒の深みにはまっていった(兄弟の心臓科医に止められたが、色々なチョコレートを試さなければ気が済まなかった)。チョコレートを味わえば味わうほど、物語の深い核心である人間の深い欲望への洞察、抑圧や偏狭を打ち破りたい衝動へと引き込まれた。彼は当初から、重要なのはミステリアスな風味を加味しながらコメディ、ロマンス、確執といった、原作の持つ要素をミックスさせていくことと確信していた。「賢さとウィットを融合させるという、この物語の魅力(マジック)に惹かれた。ユーモアとドラマが持つ感動、キャラクターに忠実な心情描写との間でうまくバランスをとりたかった。重要なのは、ヴィアンヌが人々に自信を与え、一方でそのお返しに人々が彼女に何かを与えたということ。単に彼女が与えただけではない」
彼はまた、ランスクネの各住民を血の通ったリアルな人間にしたかった。各人に強みと弱点があり、英雄も失敗し、悪党が情け深いこともある。彼の思い描くランスクネは、人間的なトラブルと歓喜の両方が存在するファンタジーの村だった。
原作との大きな違いはヴィアンヌと対立する中心人物の設定だ。原作では司祭だったレノを伯爵に、村の司祭は伯爵の陰謀の手下に改変した。製作のレスリー・ホールランは説明する。「彼の脚本は、ヴィアンヌと伯爵の対立が単に教会対チョコレート・ショップであることを越え、より普遍的にした。新しい風をもたらす女と、伝統、厳格、統制、敬虔を重んじる男との戦いに。そうしたジェイコブズの鋭い視点が、全世界が共鳴できる脚本に仕上げている。原作のアイデアを活かしながら、さらなる視点を加えて脚色したのは彼の手腕である。そしてもちろん伯爵のユーモアと人間性はハルストレムに訴えるものがあった」
ブラウンも語る。 「この脚本の素晴らしい点は、どこの国、どの時代の社会においても当てはまる普遍性だ。どの世代の人でも楽しめるが、
“新しい”時代性も持っている」
ジェイコブズはメキシコのマヤ文明における神話に満ちたチョコレートの歴史を徹底研究し、本作の史的な面にも深みを加えた。原作者ジョアン・ハリスはこうコメントする。「彼の脚本を大変気に入っている。私の小説の真髄をしっかりと読み取ってくれ、スクリーン上で蘇らせた」
ハルストレムは当初から、ミステリアスなヴィアンヌにジュリエット・ビノシュだけを考えていた。「ジュリエットが第一候補だ。彼女と一緒に仕事が出来て最高だった。ヴィアンヌが物語の骨格であり、優しさ、寛容、束縛のない恋愛を象徴しなければならない。常にそのシーンの感情を映し出すことのできるジュリエットならそれが可能だ。カメラを信頼し、あえて感情の機微を強調する必要がないことを心得ている。今までにないこの役で、女優としての新しい面をまたひとつ開拓したと思う」
ビノシュは役柄としてのヴィアンヌだけでなく、ウンザリしながら母親との果てしない旅をともにしてきた想像力豊かな娘アヌークとの母娘関係に惹かれた。ビノシュは考える。「ヴィアンヌは放浪の旅人で、いつも動き続けたいと思っている。でも、必ずしもそんな生活を望んでいるわけではない。彼女には“パターン”があり、そこから外れることが出来ない。心の中では、多くの人が直面する、子供の頃と今の自分が望む生活とのギャップに悩んでいる。それは私たちが、親や自分の過去を断ち切り、自分の人生を生きていく葛藤と同じ。色々な軋轢はあっても、この母娘の関係には非常に根源的でピュアなものがある。それは心からの愛に根差した関係だということでしょう」
ビノシュはまたヴィアンヌの魔術的な面にも惹かれ、こう説明する。「ヴィアンヌの不思議な力は、人々は変化することで幸せになれると信じる点に由来している。彼女の力は人の精神を自由にし、自分のあるがままを信じさせること。そこにとても興味を惹かれた」
実のところ、ヴィアンヌの力はあくまでも心理的だ。しかし彼女が気付かなかったのは、村が持つ不思議な力が彼女にも働きかけたこと。ビノシュは説明する。「人々が必要とするものを与えることに、彼女は多くの時間を費やしてきた。だから、相手が何かを返してくれることは彼女にとって衝撃なの。ヴィアンヌは人々の人生に変化をもたらす小さな希望と夢を売っている。しかし、知らぬ間に彼らもまた同じようにヴィアンヌを変えていた」
ヴィアンヌが劇的な変化をもたらす一人が、レナ・オリン演じるジョゼフィーヌである。
オリンとビノシュは以前にフィリップ・カウフマン監督の『存在の耐えられない軽さ』で共演しており、複雑な女友達の関係は今回また絶賛を浴びている。ビノシュは語る。「『存在の耐えられない軽さ』はもうずいぶん前で、時代も変わったけれど、私たちの付き合いは変わらずに続いていた。だから再共演はとても嬉しかった」
オリンは奇しくもハルストレム監督夫人であり、初の夫婦共同の劇場映画となる。ハルストレムは語る。「一緒に仕事をするのは夢のようだった。簡単だし、やり易いだろうと思っていたが、こんなに最高の気分が味わえるとは予期してなかった。演技する彼女を目の当たりにし、アイデアをやり取りするのは本当に最高だし、お互いに良い刺激となった。ジョセフィーヌはレナのはまり役だ。というのも、この役は奥深く、レナは非常にうまく複雑な役をこなすから。ジョセフィーヌは一風変わった感受性の強い女で、同時に強い精神を持っている。レナはこうしたジョセフィーヌの矛盾をうまく咀嚼して表現した」
新しい自分に目覚めるジョセフィーヌの天敵がレノ伯爵である。彼は小さなランスクネの村を昔と変わらぬ厳格な道徳律で支配している。しかし、アルフレッド・モリーナ演じる伯爵には権威と敬虔以上のものがある。モリーナは語る。「伯爵は全編を通じてカタルシスを経験するといえるかもしれない。とても複雑な男で、馬鹿で大袈裟、物事をまじめにとらえすぎる。例えば、ヴィアンヌを自分が治める世界を脅かしに来た野生の獣のように考える。それでもヴィアンヌと彼女のチョコレートは、変化の可能性の扉を開く」
モリーナは特に面白味のないライフスタイルや、本性がつい表に出てしまう瞬間にユーモアを感じ取った。モリーナは語る。「なんたってチョコレートのことで戦いを挑もうとするなんて、かなり面白い。ヴィアンヌが幸せな人間で、その彼女に疑心暗鬼になっていることに我慢がならない。彼女の持つ何か、町の人々にもたらす自由や喜びが、特に彼を恐怖に陥れる」
ホールランが伯爵について語る。「コミカルと同時に強烈なインパクトを与える大役だ。伯爵は引き立て役であり、最後にすべてをひっくり返してしまう重要な役柄だ。モリーナは恐ろしさとおかしさを同時に表現出来る俳優だ。今回も素晴らしい演技を見せてくれた。彼を見ていると、色環を見ている気がする。時に重く冷たい色、時に軽快な色とすべての色味を網羅しているようだ」
ランスクネの村では伯爵の厳格さも老女アルマンという風変わりな存在によって中和されている。アルマンはヴィアンヌの魅力をいち早く受け入れ、良き話し相手となる。今日を代表する名女優ジュディ・デンチが、気難しい自立心を持ち、ユーモアのある女性として演じて、多彩な色を与えた。
デンチは語る。「アルマンはヴィアンヌという鏡に自分を映し出している魔法使いのような女。他の登場人物に漏れず、彼女も変化をもたらすヴィアンヌの力に魅了される。この映画の大好きな点は、精神の高揚を描いている点かしら。ものすごい量のチョコレートを飲み食いしなければならなかったことは言うまでもないけれど」
ホールランは付け加える。「アルマンは物語の中心人物のひとり。そしてデンチの演技はとても滑らかで無理がなく感情に溢れていて、脱帽の連続だ」
本作のもう一つの魅力はジョニー・デップ演じる放浪の旅人ルーとヴィアンヌのロマンス。画面にはあまり登場しないが、本作のロマンスの主人公である。デップは因襲を破るようなこのラヴ・ストーリーに惹かれた。また『ギルバート・グレイプ』に続く2度目のハルストレム監督作品出演も魅力だった。デップは認める。「僕はラッセのいうがままに演じただけ。なんとも美しいストーリー、良く出来た脚本。面白くおかしく、独自の視点で物語を語ろうとするラッセにぴったりだ」
デップは、ルーをスチール・ギターのブルースにジャンゴ・ラインハルト並みの情熱を傾ける無鉄砲な旅人像に作り上げた。それはミュージシャン出身の彼に適役だった。彼は説明する。「自分の船を村に着け、しばらく停泊しまた旅立つような男。ルーなら昔のブルースにはまると思った。初めてスクリーンでギター演奏を披露したよ(『クライ・ベイビー』演奏シーンはあくまで真似事だと言う)」
全体を通してデップを触発したのはビノシュだった。彼女についてこう語る「とても美しく、深みのある女性。誰もが会えばすぐに恋に落ちてしまうだろう。女優という職業に真剣に取り組んでいて、映画に芸術と呼べるものがあるならば、限りなくそれに近いと思う」
ハルストレムがデップを評する。「素晴らしい存在感で主演男優の貫禄を見せつけた。いつも感動させられる。演技は常に空気感があり、間違いがない。それ以上に素晴らしい人間であることだ」
ルーと対照の存在はジョセフィーヌの粗暴な亭主セルジュ。彼の粗雑で幼稚な衝動が、ヴィアンヌとの衝突で浮き彫りになる。セルジュを演じるのは『ファーゴ』で冷血殺人犯を演じて異彩を放ったピーター・ストーメア。彼は今回、監督の妻レナ・オリンの夫役を演じるという珍しい体験をした。彼はヴィアンヌに対する村の反応でセルジュが演じる悲劇的な役どころに惹かれた。ストーメアは笑う。「ありがたいことに、同じスウェーデン生まれのレナと俺は、限りなくプロに近い演劇学校で一緒に芝居をしたことがある。こんな役はこれまで演じたことがない。あまりに哀しい役だ。彼を邪悪とは思わないが、哀しいな。すべてを手に入れても酒でみんな台無しにしてしまう」
ハルストレムは付け加える。「『ファーゴ』を観た人ならピーターにあの視線で睨まれたら、それより恐いものはないと思うだろう。しかし彼には別の面があって、コミカルな“間”をとる俳優でもあるんだよ。この役は簡単な説明で済まされ、つまらないと言われるかもしれない。しかし、ピーターはそれを子供じみた気まぐれな役に作り上げ、まったく新しい視点と深みをもたらしている」
役の複雑さに加え、ストーメアは全体像に惹かれた。「外から町に変わった風が吹いたときに決まって起こる話。例えばテレビが届いたというような新しい何かがきたとき、罵倒する人と歓迎する人とに町を二分するような。そういう意味で非常に面白い。現実の人生と今の社会のメタファーだ」
同様にそうした部分に惹かれたのは、アルマンの疎遠になった娘で反発からレノ伯爵と手を組むカロリーヌ役のキャリー・アン・モスである。「この作品の魔法と真実が交じり合ったところが好き。カロリーヌは極端に抑制した生き方をする女。息子も、自分も、母親もすべてコントロールしたい。というのも、それが一日を過ごす最良の方法だから。でも、ヴィアンヌに人生をひっくり返され、最後に本来の自分を取り戻す。わずかに自分を解放し、自由と軽やかさを経験するようになる」
おそらく最も純真な役はヴィアンヌの迷える娘アヌークだろう。演じるのは弱冠4歳にして『ポネット』の感動的な演技でヴェネチア映画祭主演女優賞獲得という歴史に残る名子役ヴィクトワール・ティヴィソルである。ホールランは語る。「彼女は賢さを感じさせる意味で、ラッセ作品の子役にふさわしい。ラッセが使う子役はいつも大人のようだ。無邪気でうぶ、さりげなくて気取りのない子供だが、世間の認識を覆すようなことをする。カメラとの相性が良く、彼女の賢い部分と子供らしい無邪気な明るさの両面が映し出されている」
ヴィクトワール自身はアヌークについて「私みたいにおかしくてずるい女の子。ラッセとの仕事は大好き。監督はとっても優しくていい人だし、私の考えを聞いてくれた」と評する。
孤独で悩めるアルマンの孫ルークを演じるもうひとりの子役オーレリアン・ペアレント・ケーニング、本作が映画デビューである。デンチが評する。「男の子らしい素晴らしいエネルギーをもたらす。生活のあらゆることに生来の好奇心を持っている。それは俳優として大事な部分。将来が楽しみね」
ハルストレムと子役について、デンチがまとめる。「ラッセは俳優の年齢に関わらず、いつでも同じ接し方をする。子供にも大人のように語りかけ、全員に同じ敬意を払う。ある意味、彼は、本作で重要な要素である大人の幼稚さと子供の成熟した分別をわかっている」

登場人物と並んでチョコレートもまた、進行に沿って様々な性格を帯びる。時には悪魔の囁き、また至福の喜びであったり、張り裂けそうな胸の痛みを慰めたりといった風に。チョコレートはいつでも変化の触媒となり、それがゆえに現状を脅かす危険と恐怖にもなる。昔からチョコレートがどのように力と快楽とに関ってきたか理解を深めようと、ビノシュはチョコレートの料理学校に通い、ダーク、ビター、セミスウィートなどチョコについて実際に学んだ。ビノシュは語る。「チョコレートは昔から大好きだったけど、映画ではチョコレートがただのお菓子ではない。他人に対し、自分に対して働きかけてくる、ある種シンパシーのある作用を持っている。感情、誠実、いたわりといった人間同士の贈り物のやり取りを象徴する素晴らしいシンボルなの」
ビノシュは評判の高いフランスのチョコレートショップをいくつか訪ね、チョコレートの魔術師ヴィアンヌを演じる心構えを専門家のウォルター・ビアンツに学んだ。また、世界中からチョコレートのサンプルを集め、“神の食べ物”といわれたマヤ文明のチョコレートの起源について本を読んだ。
ビノシュは振り返る。「最初に、ヴィアンヌの手段としてどうしてチョコレートを選んだのか、原作者ジョーン・ハリスに尋ねた。すると彼女は、チョコレートには世界中で愛されてきた長い歴史があるからと説明してくれた。それに興味を引かれた。アジアにもアフリカにも南アメリカにもチョコレートはあるけれど、それぞれ微妙に味は違うし、それぞれ別の特別な力が与えられる感じがする」
相談役のウォルター・ビアンツも語る。「かねてよりチョコレートにはパワーがあると信じられてきた。確かに情欲を起こさせ、感情を表に押し出す食べ物といえる。だから人がチョコレートに狂ったようになってしまう」
ビアンツはまた実際にサイズ、固さ、中身の違う様々なタイプのチョコレートの扱い方もビノシュに指導した。「チョコレートは少なくとも50種類あり、どんなチョコレートかは材料と温度で決まる。まさに芸術の世界だ」
ビノシュはすぐに混ぜる、熱す、味見するという作業に慣れた。「チョコレート作りは本当に楽しかった。黒いドロドロの液体が様々なチョコレートとなって人間の喜びのモトに変わる。その過程を知ることに夢中になった。ウォルター・ビアンツ氏はチョコレート体験がどれほど官能的体験でありうるか、私たち全員に説いてくれた」
ホールランは語る。「彼はまさにチョコレートに惚れ込んでいて、悟りの境地に達している。彼と話した後は、チョコレートが人生を変えてくれると本気で考えてしまう。この不思議なお菓子を口に放り込めば、自分を自由へ解放してくれるように思えてくる」

本作の舞台は、登場人物が生まれる前から生活パターンが確立され、ヴィアンヌがやってきて静かな水面に波紋を起こすまで、まったくと言っていいほど変化がなかったランスクネという架空の町である。製作者が求めたのは“不思議でリアル”な町。おとぎの国なのに実在し、美しい外見と内に潜む暗い影が交錯しているような場所を作りたかった。
プロダクション・デザイナーのデイヴィッド・グロップマンはヨーロッパを隅から隅までくまなく探し回り、フラヴィーニーというフランスの中世の町を見つけた。ブルゴーニュ地方ディジョン近くにあるこの町は10世紀の面影を遺している。丘の上にあり、三方向に小川が流れる美しい町。その上、主要産業がフランスで有名なアニス・キャンディ製造だった。
グロップマンは語る。「フラヴィーニーの町は装飾過多でなく、可愛いらしすぎず、しかし不思議な魅力を感じ、好きだ。あてもなく歩いているうち、地形と建物の関係がとても気に入った。ラッセとはシンプルなストーリー展開を際立たせながら、描写を忠実に守っていこうと話し合ったが、そのコンセプトにぴったりだと思った」
町のもうひとつの特徴は、時が止まったような空気。ブラウンが説明する。「町を見渡しても、広告、高層建築、道端の店すらない。目に映るのは馬、牛、子羊と住民だけだ。この物語を語るにふさわしい雰囲気が十分あった」
この町をベースに、本作独特の町並みと映画のトーンを掴むための写真、絵、イラストを突き合わせ、グロップマンは監督と綿密に打ち合わせを重ねた。特に50年代フランスの日常生活を捉えた偉大な写真家ロバート・ドリスノーとリリー・ローナを参考にした。グロップマンは語る。「当時の暮しを収めた素晴らしい写真があった。小さな町の通りで行われた祭の写真は(劇中に出てくる)チョコレート祭で完全に蘇った」
ハルストレムは、グロップマンが特にチョコレートショップに魅惑的な空気を醸成したことに感心した。監督は語る。「デイヴィッドはチョコレートが古代マヤ文明の遺産である感じや、その不思議な魅力を店の内装を通して引き出し、チョコのデザインまで生き生きと表現した。非常にリアルなこの町は彼のお陰と言わねばならない」
キャリー・アン・モスは語る。「彼の作ったセットを歩いていると、おとぎ話の絵本が現実になった気がしてくる。それはヴィアンヌにちょっと魔法をかけられたと思えてくるほど美しかった」
撮影は実際の町に物議を醸し出した。あの世の約束を待つより、この世の楽しみを追求するという映画のテーマに不安を覚える修道士が反発したのだ。ブロンクィストは語る。「幸運にも町長と地元の司祭の両者が想像以上に支えとなってくれ、住民に善意で受け入れられた。司祭は修道士に、映画は脚本だけで判断できるものでなく、キャスティング、編集、製作全体が関係してくると説いてくれた。こんなに映画をわかってくれる司祭と出会えて我々は本当にラッキーだった」
一時的に町の一角をランスクネに改装したときは、俳優とスタッフで町の人たちをパーティに招待して架空の町を散策してもらった。グロップマンは語る。「実際の住民がカメラを手に、自分の町の変貌を楽しむ様を見るのは素晴らしい経験だった。老人の中には若い頃を思い出した人もいた」
キット・ゴールデンも付け加える。「私たちがほどこした変化を楽しんでもらえたのは非常に嬉しい。5月にフラヴィーニーの町に雪を降らせたことがあった。すると町中の人が見学に訪れた。本当に魔法にかけられたような素敵な瞬間だった」
フラヴィーニーに加え、イギリス西部の田舎町でも撮影した。アルマンの農家にはブルートン、レノ伯爵の家にはブリムトン・デヴァーシーのマナーハウス、川のシーンではフォントヒル・ビショップなどのロケを敢行した。残りの撮影はイギリスのトウィッケナムのシェパートン・スタジオで行われた。そこには町の広場が再現され、チョコレートショップ、店のキッチン、ヴィアンヌの住居など、室内の撮影のほとんどが行われた。グロップマンはフラヴィーニーの町並みのゴム型をとり、イギリスに持ち帰って忠実に再現した。キット・ゴールデンは「驚嘆させられたよ」と語り、ハルストレムも「シェパートン・スタジオの撮影初日にセットを歩いた時はフランスに戻ったと思った。一つ一つの石の襞まで、実物とまるで同じ。ここにも“不思議でリアル”な制作の一面が窺える」と語る。
全撮影を通じて、ハルストレムは神話と実際の心情、フィクションとおかしな人間の真実の線引きをぼかすことを心がけた。これをヴィジュアルで成し遂げるため、『ことの終わり』の触発的な映像でオスカーにノミネートされたカメラマンのロジャー・プラットと綿密に話し合った。ハルストレムは語る。「ロジャー・プラットはセピアの映像に頼ることなく、夢のようにノスタルジックな映像を作り出し、本作に詩的な情感を加味してくれた。感傷や可愛らしさによってではなく、私たちを別の時代の別の場所に連れてゆく才能がある。このおかしくて不思議な出来事の数々は実際にあることで、ここに登場する人物は本物の人間に違いない、そんな風にすら思えてくる」
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