昭和30年、国鉄は労使問題、相次ぐ列車事故により総裁が辞任に追い込まれる事態を繰り返していた。そんな中、第4代国鉄総裁の白羽の矢が立ったのが明治生まれの元国鉄マン・71歳の十河信二。十河が日本の未来のために必要だと考えたもの、それが世界一速い夢の超特急・新幹線だった。十河は日本国民が敗戦で失った自信と誇りを取り戻すような仕事がしたいと考えていた。

  十河の夢を叶えるのに、必要な男がいた。D51、C62を始め戦前から蒸気機関車の傑作を次々と設計していた天才技術者・島秀雄である。島は戦前、東京―下関間に時速200キロの超特急列車を走らせるという壮大な計画「弾丸列車計画」の設計を担当していた。しかし計画は戦争の激化により頓挫。島はその後国鉄の「技師長」となるが、4年前に国鉄の事故の責任を取り、「技師長」の職を自ら辞していた。「弾丸列車は君の夢だったはずだ」という十河の説得にも、「私はもうすぐ55歳です。夢を追うには遅すぎます」と断る島。その時、十河は「何を言うか!ハタチでも夢のない奴はオイボレだ。百歳でも夢を追う奴は若者なんだ!」と一喝する。島は国鉄に副総裁として復帰することを決意する。




 国鉄では「東海道線増強委員会」が開かれ、行き詰まった東海道線を増強する案がもまれていた。一つは「狭軌・複々線案」。現在の東海道線のラッシュ状態になったところのみを複々線にする案だった。そしてもう一つは島や十河が指示する「別線案」。これは東海道線とは別に、高速線用の広軌の新線を作る案だった。日本のレールは植民地で多用されていた幅の狭い線路幅(狭軌)だったが、交通量、輸送量を上げるには幅の広い線路(広軌)を敷くことが必要だった。しかし国鉄内部では、用地の買収に莫大な費用のかかる別線案では、金も時間もかかり、国会で予算を通すことができない、という意見が有力だった。またマスコミや世論も、「アメリカ型のハイウェイ中心の車の時代」を歌い、「鉄道の時代は終りを告げた」とさえ言われていた時代、新幹線への風当たりは強かった。

 十河が政治家を使っての根回しに走る中、島は国鉄復帰前からの部下たちと共に、着々と高速列車の開発を進めていた。島のもとに集まった部下達は、戦中に日本軍の技術者として働いていた松浦、三井、河上ら。戦後、担ぎ屋くらいしか生きる道のなかった彼等を、島は国鉄の技術者として採用したのだ。部下達は島に単なる上司以上の信頼を寄せていた。

 島は以前から「技術向上は技術者同士の情報交換なくしてはありえない」と言い、セクショナリズムや企業間を越え、お互いの研究の成果を惜しみなく披露しあうべきだと考えていた。小田急がスーパーエキスプレス列車(ロマンスカー)を開発すると聞き、島はテスト走行に小田急よりもカーブが少なく、スピードが出やすい国鉄の線路を使わせるように手配した。これに国鉄幹部は反発した。実験で小田急SE車が当時の狭軌世界最高速度145キロを出し、マスコミが大きく報じても、小田急ロマンスカーが人気を博しても、国鉄内部、そして世論の「新幹線不要論」はなかなか消えなかった。新幹線など莫大な建設資金の返済に苦しむだけだ、と・・・。

  この閉塞状況を打破するべく、十河は「世論を作る」べくあるアイディアを思いつく。それは、講演会を一般に向けて開くというものだった。島は「東京―大阪3時間の可能性」というテーマを提案した。昭和32年、銀座・山葉ホール「東京-大阪間3時間の可能性」と題した講演会は関係者の予想を遥かに上回り、立ち見が出るほどの盛況振りとなった。ここで島たちは、東京―大阪3時間は、今の技術を集大成すれば可能であること、それを実現するための条件は、国際標準のレール(広軌)を敷くことを説明する。講演が終わると、鳴り止まない拍手と声援が沸き起こった。大衆は夢を求めていたのだ。
十河は理事たちを集め、講演会と同じ内容をもう一度島の部下たちに話させた。この御前会議の後、国鉄内部の新幹線に対する風向きが変わった。政治家たちの間にも新幹線に賛同する声があがり始めた。



 新幹線はまだ正式に決まったものではなかったが、島は早速かつて弾丸列車計画時代に共に働いた大石重成を訪ね、新幹線プロジェクトの一端を担って欲しいと依頼する。島が大石に頼んだのは、「新幹線調査室長」。つまり新たなレールを敷くための土地買収だった。大石はこの任務を受け、東京から大阪まで歩いて下見に行くという彼らしいやり方で、コースの調査を開始する。

 こうして十河は政治家への直談判と説明を繰り返す資金調達を、総局長の大石は土地交渉を、そして島は異次元のスピードを安全に走らせる列車の技術開発に奔走することとなっていく。国鉄内部では彼ら三人を「新幹線三羽がらす」と揶揄し、冷ややかに見ている者も少なくなかった。

 昭和33年、島を中心とした技術者たちが開発したビジネス特急『こだま』がデビューした。『こだま』は東京―大阪間を6時間50分に短縮し、たちまち大人気となった。
その年、運輸大臣の諮問機関『日本国有鉄道幹線調査委員会』は、東海道線は別線、広軌レールを採用すること、5ヵ年計画(つまり昭和39年の東京オリンピックまでに間に合わせること)で進めることを決定した。十河、島、大石らの説得がついに実ったのである。

 しかし、事は簡単には進まなかった。島と大石が試算した新幹線建設費の見積もりは3000億。これに対し十河は「予算上は半分に削れ、あとは政治力でなんとかする」と言うが・・・。土地買収も困難を極めた。用地買収を打診された人々の反発は予想以上のものだった。オリンピックによる土地の価格高騰も向かい風となった。マスコミや我田引水派の政治家たちは相変わらず膨らむプロジェクト費用に敵意を示していた。実際、一政権内での予算である為、長期間での保証は一切ない。不足分をどうすれば…。
この時、島と十河が考えた打開策とは・・・?