2008年09月24日
『新しい季節』
9月も終わりが近づくと話題になるのが『今年も夏が終わったねぇ...』です。
そう、気がつくと樹木は色づき、風は秋らしい懐かしさの薫り。
『今年は海に行かなかったなぁ』『花火も見てないや』『スイカは食べたっけ?』
唯一の夏の影は、左腕に刻まれた『腕時計の日焼け跡』...
確かに今年の夏は、色々な場所に行き、たくさんの人に出会いました。
アフリカで見たのは、空前の経済成長と、最貧国の横顔。
北海道・洞爺湖で見たのは、厳戒態勢の警備と、少し迷惑そうなアスパラ農家のお年寄り。
北京で見たのは、世界の視線を意識する国家と、見えにくい国民性。
どこまで視聴者の皆さんに『現場の熱』を伝えられたのか。
ベストだったのか、ベターで妥協したのか。
この仕事を始めてから、一度も満足したことはありません。
この季節、テレビ局は改編時期になります。
そして『速ホゥ!』も終了です。
秋からのテレビ東京のニュース番組は、大幅に変わります!
午前は番組名『E-morning』として、
午後は番組名『FINE!』として、それぞれ時間も内容もパワーアップ!
私は『E-morning』で皆さんに情報をお伝えすることになります。
番組が変わっても、お客様=視聴者の皆さんに楽しんでもらえるよう、
ベストを狙います!
2006年から始めたこの日記。
つまらない内容選択や、私の文才の無さを露呈することになりました(汗)
少しでもテレビの裏側を感じていただけたらと思っています。
お付き合い頂き、ありがとうございました。
これからもテレビ東京のニュース番組をよろしくお願いします!!
2008年09月05日
『北京五輪取材記(3)』
五輪の開会式は、『その国・そのとき』を表すといいます。
北京五輪の開会式には、確かに中国を凝縮したものが見えた気がします。
私が北京に到着したのが8月2日(土)。
到着して早速、五輪会場の『鳥の巣』に向かうと、『鳥の巣』や『ウォーターキューブ』を含む五輪施設のある敷地は完全に関係者以外立ち入り禁止。2メートルほどのフェンスで囲まれ等間隔に警察が立っています。
五輪前最後の土曜日、そしてこの日は開会式のリハーサルをやるということで、日が沈むにつれて、フェンスの周りには信じられない勢いで人が集まってきます。
それは野次馬というよりも、大群。
1000人、2000人レベルじゃない。数え切れません。恐怖すら感じます。
身動きが取れなくなるくらいの人の波にさらされていると、突然『鳥の巣』から花火が上がりました。と同時に大歓声。リハーサルが始まったようです。会場の中は遠すぎてまったく分かりませんが、花火だけは見えます。みなコレを目当てに集まっているのです。
しかし中には『何があるか知らないけど、みんなが歩いていたから、ついてきたんだ』のような人も。これは五輪期間中、街のあちこちで聞いた言葉。
現地の人の話では『中国人は人が集まっていると、どんどん集まっちゃうんだよ。理由も知らずにね』とのこと。好奇心なんでしょうが、人数の規模が大きすぎて慣れない日本人には脅威に感じます。
その、中国の人の波の集合体が、北京五輪の開会式に思えました。
様々な批判はさておき、私が会場で感じたことをそのまま記します。
メディアセンター『IBC』から『鳥の巣』に向かう途中、セキュリティチェックを2回通過します。ひとつは空港と同じ厳しいチェック。
私の後ろからやってきたアフリカのメディアが揉めていました。3m×1.5mくらいの国旗を持ち込むことに、セキュリティが難色。
この時期の北京では、横断幕や国旗などを競技場に持ち込むのは厳しい規制がありました。
アフリカのメディアに話を聞くと、『ただの旗だし、そんなに大きくないのに...』と困り顔。
結局、大きいものは持ち込めず、1m×1mくらいの国旗を持ち込んでいました。
とてつもない人ごみの中『鳥の巣』に入ると、各席に応援グッズなどの入った袋が置かれています。
中には、電飾灯・豪華なパンフレット・水・そして『風呂敷のような赤い布』など...
会場中に小刻みに配置されたボランティアが、応援グッズの使い方を観客に熱心に教えています。
開会式、開始。
観客9万人を超える『鳥の巣』は、異空間です。
日中、手元の温度計で40度を超える日でした。
夜でも非常に暑く、あっという間にシャツは汗だく。
二度と見られないであろう多くの人員を動員したチャン・イーモウの演出は、圧倒的。
しばらくして大きな地球儀がフィールドに現れたとき、ボランティアが『風呂敷のような布』を広げて、大きく振るようにと指示。
会場中で『風呂敷のような布』が揺れています。
会場全体で風呂敷が揺れています。赤い風呂敷です。会場が真っ赤に。
ほぼ同時に、フィールドの地球儀も、真っ赤に...
猛暑の中4時間以上の開会式だったため、心配なことも。
フィールドの中国人ダンサーやボランティアが倒れ担架で搬出。
脱水症状を起こしたボランティア青年がフィールドでフラフラしていると、係員が走りよって水を飲ませる。
選手たちは多くが座り込んで、耐え切れず帰る選手も多数。試合がありますからね...
深夜1時に開会式が終わり、フラフラになって『鳥の巣』を出ると、いつもは青い『ウォーターキューブ』が真っ赤になっていました。
当日は感動に震えました。
今も心に残る印象は、『人』『赤』『自己主張』です。
2008年08月27日
『北京五輪取材記(2)』
五輪開催で、北京には様々な変化がありました。
空港・道路・鉄道の交通網。
では、私が接した上記のモノはどうだったのか。
まず空港は前述しましたが、ぞっとするほど広く綺麗。
五輪期間中ということで、セキュリティはとんでもない。
空港では、金属探知機通過・銃器所持チェック・警察犬や警備員による金属探査・警
備員が実
際にボディチェックと様々。とくに実際に体を触られる時は、1分間くらい念入り
にチェックされました。
これだけ緊迫した空港ですが、レストランは中国的。
空港内レストランで食事をする時、店員がオーダーを間違えて持ってきたので通訳さ
んが指摘したところ、『私は間違ってない、あなたたちが間違えたのだ』と激怒。上
司も出てきて『私たちは悪くない』と一辺倒。
この類のトラブルは北京のレストランでほぼ毎回、慣れます。
サービス業とはなんぞや。
道路。
五輪専用レーンというものがあり、これは相当効果がありました。
片側5車線くらいある幹線道路の1車線に『五輪マーク』がついていて、そのレーンは
五輪専用パスを持った車両しか通れません。
選手はもちろん、五輪関係者や五輪プレスが使うのですが、渋滞の多い北京でスイス
イ。
中国人ドライバーは『北京でこれだけスイスイいけるのは、国賓級だよ』と感動して
いました。
移動時間が読めるというのが、五輪にもメディアにも素晴らしい効果。
交通規制も効果があったようです。
オリンピック会場近くのあちこちで規制があり、五輪関係車両しか通れない道路がか
なりあります。このおかげで取材もしやすい。
ただ、規制区域の中にオリンピック会場があるため、入れるタクシーも少ない。
これが非常に大きなマイナス面を生みました。
8月8日の開会式終了したのは夜中の1時。観客が家路に急ごうとしても、規制のため
タクシーが無い。会場は郊外ですし。
地下鉄は、開会式ということで特別に24時間運行でした。
『地下鉄を使えばいいじゃないか』という声が聞こえそうですが、北京の地下鉄は増
えたといっても、東京のように全域を網羅しているわけではない。
地下鉄では帰れない市民が圧倒的です。
私もタクシーで帰ろうと思ったのですが、タクシー待ちの行列はすでに100人近く
に。
タクシーは滅多に来ない。北京ではただでさえ、タクシーの乗車拒否は日常茶飯事な
のに...
多くの人は歩いて車通りの多い場所へ。私もそうしました。
1キロほど歩いたところにある大通り。すでに200人以上がタクシー争奪戦を繰り広げ
ています。道路のど真ん中でタクシーを強引に止め、勝手にドアを開けて乗り込むた
くましい北京市民。
さらに1キロ先の交差点へ。まだ100人ほどがタクシー争奪戦。
道中、あきらめ力尽きて路上で眠る市民も多数。
もう1キロ先へ...
そんなこんなで、2時間歩きようやくタクシーを捕まえたのが朝4時近く。
開会式以外にもこんな日が3回ありました。
現地の人は『五輪で交通を整えたのに、五輪に来ると移動手段が無い』とチクリ。
地下鉄。
新しくできた路線は、日本のモノより綺麗な印象です。
ホームは落下防止の二重扉。
多くの液晶テレビが設置されていて、ニュースが見られる。
車内も日本の地下鉄とまったく同じです。
駅では荷物検査をしています、が、かなり雑。
私は4回地下鉄に乗りましたが、2回はスルー。不安になります。
『並ぶ』という習慣が少ないため、やはり降車を待ってから乗車、というマナーはあ
りません。『ワレサキニ』です。
車内での携帯の使用も気にしていないようでした。
様々な規制で、生活に不自由が生じていても『地下鉄がたくさんできて便利になっ
た。五輪のためだから規制も全然問題ない』という北京市民の声が多いです。
2008年08月19日
『北京五輪取材記(1)』
『北京五輪取材記①』民族・環境・貧富...そして震災。
多くの問題や心配をささやかれながら、2008年8月8日、北京五輪は開幕しました。
中国が世界からどのように見られ、中国が世界をどのように迎え入れるのか。
私は北京五輪開幕まで、現地で取材に当たることができました。初めての中国。
ありのままを見ようと思っても、もちろん先入観があります。その先入観は、多くの場面で打ち壊されました。私が北京に入ったのは8月2日。
成田空港でいきなりの先制パンチを浴びます。離陸20分前になって突然、中国側の都合で、離陸許可が出なくなったというのです。理由は五輪警備のためとか...しかも厄介なことに、『全員が機内に着席した後に、中国側に離陸許可申請をしなければならず、それから許可が出るまで2時間かかる』というのです。
つまり、機内で2時間待ち確定。予定を2時間遅れて離陸し、初の中国上陸。大気が真っ白と聞いていたのに、快晴、青空。新しい北京空港のターミナルは果ての見えないほど広い!それほど混雑していないのに、入国審査・荷物受け取りすべてを通過するまで2時間かかりました。
ただ、時間かかかったのは広さだけではなく、警備の厳重さが大きな要因です。空港には警察や水色の揃いの服を着たボランティアの姿がとにかく目に付きます。
この水色のボランティアは北京中で活動。とくに観光スポットで小さな小屋(ステーション)を作り、『通訳』『案内』『医療』の3部門のスタッフがいます。北京の繁華街・王府井のボランティアステーションでは、外国人を含む多くの観光客が道を聞いたり『通訳』と会話したりと、なかなかの賑わい。スタッフのほとんどは大学生。
『五輪は中国100年の夢。何かの形で、五輪に関わりたい』面白いことに、みな口を揃えてまったく同じことを話します。ただ『海外と接したい』という熱は伝わります。
話を聞くと『日本のマンガが好き』という人が多かったことも意外でした。私が接した中国の若者たちは、ほとんどが日本に強い興味を持っていました。
マンガ、アイドル、東京など、日本のことを良く知っています。ネット世界はボーダレス。日本語を話せる学生も多いのです。
中国での『反日』という感情は、私が思っていたものとは少し違うようで、『日本の文化を知って興味を持つことと、歴史を学ぶことは別なのです』と話す人もいます。
中には、お祭り気分、ボランティア活動そっちのけで五輪選手の写真を撮影し続ける学生もいます。いずれにしても、ボランティアを中心とした中国の若者の積極性は、五輪の大きな歯車。私たちがボランティアステーションを取材していると、現地のテレビ局も取材を始めました。
すると突然、水色の服を着たひとりのお年寄りがステーションの中へ。
彼は学生ボランティアを集め、指示を出し、学生を引き連れて王府井の街を歩き始めました。カメラはそんなお年寄りを撮影し続けます。しばらくして撮影が終わると、お年寄りは姿を消しました。
その後、彼を見ることは一度もありませんでした。
なんでもこの人は、聖火ランナーを務めたボランティアリーダーとのこと。
彼がボランティアとして街で活躍する姿を、テレビ局が放送する。日本で言うところの『やらせ』『演出』でしょうか。ボランティアスタッフの中に混在する、積極的な学生とお祭り気分の学生、そして広告としてのボランティア効果。
北京五輪の側面が、ボランティア活動からも透けて見えます。
2008年07月21日
タンザニア取材記(4)
経済成長率7%以上。
この数字は驚異的です。
タンザニアの地方部では、このすさまじい経済成長を実感できない農民が多い中、
都市部では豊かさを楽しむ富裕層が少なからずいます。
タンザニア最大の都市ダルエスサラームの郊外にある巨大ショッピングモール。
アラブの一人の老婦人が、建設費を出しています。
大きさは一辺が直線にして200m以上。
驚くべきことにまだ完成ではなく、工事途中の現場を見るとさらに300メートル以上
の直線が続いています。トータル500mはあろうかというモールには店以外に、
プールや住宅なども入るとか。
日本のショッピングモールを比較すると、私個人の感想ではタンザニアの
それのほうが巨大です。
モール内には映画館もあり、銀座にありそうな衣料店や家電量販店が、
日本と変わらない物価で並んでいます。
平均年収が6万円といわれるタンザニアで、です。
このモール駐車場は現時点で800台収容可能で、週末は満車になるとか。
それほど、都市部では富裕層が増えています。
警備員も多く、バックヤードのセキュリティも厳格、清潔でゴミ一つなく、
子どもが一人で走り回る姿も。
日本にいるような気分になりました。
では、タンザニアの都市部の多くがこのような環境かというと、
そんなことは決してない。
このショッピングモールの敷地を出ると、未舗装の道ばたではたくさんの
タンザニア人が座り込んだり横になったりしています。
街を行きかう路線バスには、8人定員のところを20人くらい乗車し、
バスにぶら下がるようにして乗車する人も。
クラクションが鳴り響く中、怒号が飛び交い、時には喧嘩も。
子どもたちは日銭を稼ぐために、富裕層に物乞いをする。
こっちがタンザニアの日常、スタンダードです。
経済成長に伴う、格差。
日本の格差よりもはっきりと、明日の見えない格差があります。
タンザニアでの取材中、街でも農村部でも、子どもたちは私たち取材クルーを
見つけるとあっという間に集まってきます。
そして『何かちょうだい』と広げた手のひらを伸ばしてくるのです。
中には強引にカバンを奪おうとしたり、ポケットに手を入れてきて
ペンなどを奪ったりする子どももいます。
ある街で私が歩いていると、母と2、3歳くらいの子どもが歩いてきました。
私が何の気なく『ジャンボ(こんにちは)』と声をかけると、母親が『ジャンボ』と
返してくれました。
しかし子どもは、私に向かい何か言いながら手のひらを伸ばしたのです。
『何かちょうだい』と。
ショックでした。
あんな小さい子どもが、あいさつもなく、笑顔もなく、私が外国人とわかると
『何かちょうだい』の仕草。
あの子には何の悪意もありません。私は母親の教育が悪いとも思いません。
彼らにとってあの行為は、ごく自然、なんの違和感も感じないのでしょう。
私は、これは私たち外国人観光客や短期滞在者の大きな罪ではないか?と
感じました。
アフリカの子どもたちを目の当たりにすると、その貧しさは見ていられないほど
辛いものです。
確かに、何か分け与えたくなりますし、それが間違いとは思いません。
ですが、善悪もわからない子どもが、礼儀も感謝もわからず、外国人からは
何かもらえる、という価値観を根深く植え付けてしまっている。
これは与える先進国の我々がしっかりと理解しておかなければならない。
アフリカ支援とは与えるだけではなく、ともに成長するものでなければならない。
これは何も国レベルの話だけではなく、個人レベルでもいえることです。
私はタンザニアに滞在中、何一つ子どもに与えることはしませんでした。
彼らのために、胸を痛めて与えませんでした。
本当に微々たることですが、与えられるとはどういうことか、子どもたちが
考えてくれればという期待を込めて、与えませんでした。
アフリカの未来は、アフリカ人の力で強く立ち上げてこそ自立といえます。
そのために先進国がどうするか?
搾取と利用の歴史を、少しでも変えることができれば。
まずは自分レベルで、みなさん考えてみてください。
2008年07月17日
タンザニア取材記(3)
キリマンジャロ山。
日本ではコーヒーの産地として馴染みがあります。
そのキリマンジャロのすそ野にあるルカニ村に、私たちは取材に行きました。
強い雨の降る中お邪魔したのは、コーヒー農家のシーザーさんの家。
家族は妻と6人の子供、そして牛・豚・鶏を8畳ほどの小屋で飼育しています。
私はシーザーさんに、意地悪な質問をしました。
『コーヒー1杯、日本ではいくらだと思うか?』という質問です。
もちろん彼らには、遠い異国のことなどわかりません。なにより、自分たちの作った
コーヒーが、その後どのように取引されているかなど、知るすべもないのです。
シーザーさんの答えは『想像もつかない』でした。もっともだと思います。
私が『日本では300円~400円します』と言うと、シーザーさんは絶句し、首を振り
『なんという値段だ、高い、高すぎる』とこぼしました。
実はこの質問、数人のコーヒー農家にも聞いていて、みな同じ反応でした。
あるコーヒー農家の方いわく、『300円は私たちのコーヒー1㎏の売値と同じ値段
だ。
コーヒー1杯は、だいたい豆3粒でできるのに...』
彼らは、コーヒーの市場価値を知るすべを持ちません。
コーヒーの恩恵をほとんど受けずに、今まで生産していたのです。
シーザー家の長女エリシさんは18歳、高校に通っています。
タンザニアの公用語が英語とはいっても、地方ではほとんどが
スワヒリ語しか通じません。
私がダイレクトにコミュニケーションを取れたのは、英語のできるエリシさんだけ。
取材の合間に彼女と雑談中、私が『今日は雨で嫌だなぁ』とつぶやくと、
彼女は『なぜあなたは、雨が好きではないんですか?』と。
雨が少ないと収量が減る、そのためタンザニアでは雨は喜ばれるそうです。
雨ひとつの会話でも、リアクションがこれほど面白いのがアフリカ取材の醍醐味で
す。
そんな中、非常に興味深い話を聞くことができました。
それは、私が彼女に『将来はどんな職業に就きたいの?』と質問したときです。
彼女から帰ってきた答えは、『私は草刈りの仕事をしたい』
驚きました。
彼女の言う草刈りとは、家の前や畑の雑草を刈る、という意味です。
決して『草刈り業』という就職先ではないのです。あくまでも、家庭の仕事というこ
とです。
お金を得るための仕事ではない。
経済発展が目覚ましいタンザニアといっても、地方部では『仕事』という概念が
先進国のそれとは大きく異なっているのです。
コーヒー農家の祖父を持ち、現在は観光業を営み富豪となったタンザニア人の社長に
話を聞いた時、彼は『タンザニアで一番の問題は貧困である。
そしてその対策には教育が不可欠だ』と話していました。
これは他のアフリカの国の政府関係者も同じ意見で、彼らの言う『教育』と
いうのは、読み書きそろばん、だけではなく『知見を広げる』という意味が
多く込められています。
かつて日本が寺子屋などで行ったように、国の識字率が100%になれば、
搾取から・貧困から脱することができる。
そして広い知識を得ていれば、選択肢が広がる。
ルカニ村にはフェアトレードで作られた中学校や図書館があります。
しかし、世界の食糧高騰・物価高の影響と学費の値上げは農家を直撃。
苦しい農家は、牛を売って子どもを学校に通わせています。
牛を売りつくした農家もいます。彼らはその後、どうやって子どもを学校に通わせる
のか。
世界的な食糧高騰の波は、津波となってアフリカ大陸に押し寄せ、貧困を脱する武器
『教育』を飲み込んでいます。
最貧国での負のサイクルは、解決策を見いだせずにいます。
(以下次号へ)
タンザニア取材記(2)
アフリカの経済成長はすさまじい。
タンザニアの変化のスピードも目覚ましく、経済成長率は7%を超えています。
都市部は建設ラッシュ。いたるところで薄型テレビ、パソコン、
高級車のショールームが並んでいます。
タンザニア政府はこの流れをさらに活かすため、都市部の一部に『経済特区』を
設けています。簡単に言うと、外国企業が特区内に工場を敷設し海外に製品を
輸出する場合、関税を無税にする、ということです。
すでに中国の繊維工場などは大規模な工場を稼働させています。
その窓口になっているのが、政府の産業開発省・貿易センター。
貿易センターに、あらゆる外資系企業がタンザニアでのビジネス展開を
狙ってやってくるのです。
私たちが貿易センターを取材した日も、インドの電気部品メーカーの男性が
申請に来ていました。話を聞き名刺をもらうと、社名には『JAPAN』の文字が。
『日本の企業とかかわりがあるんですね?』と聞いてみると、『いや、実は日本には
行ったこともない。初めて見た日本人は君だよ』と苦笑いのインド人男性。
なんでも『JAPAN』の信用度は高いからとのこと。おいおい...
その後私たちは、貿易センターに紹介してもらった特区内にある
欧州系の工場へ向かいました。
経済特区は果ての見えないくらい大きな敷地。出入り口には厳しいセキュリティが。
このあたりはタンザニアというより先進国の匂いがします。
門をくぐると、多くのタンザニア人が働いています。
さまざまな国の工場が参入することで、現地には多くの雇用をもたらす。
国としては外貨獲得につながる。その現場です。
私たちが向かった欧州系の工場では、1000台のミシンを使い洋服を生産して
アメリカへ輸出しているとのこと。
多くの工場を通過し目指す欧州系の工場に到着すると、建物の外に
100人以上のタンザニア人労働者が集まって、緊迫した空気を
漂わせています。
トラブルです。
話を聞くと、なんでも給料の遅配と仕事がないことに対する抗議だとか。
工場には鍵がかけられ警備員が立ち、労働者が中に入れないようにしてあります。
私たちが入れてもらうと、工場内はもぬけのから。
1000台のミシンは押し黙っています。
工場長はあと15分で来るというので、とりあえず工場のディレクターに
状況を聞くと、『給料は明日支払う。仕事は、今週はないが来週は新規の仕事が入
る。
このように労働者にも説明したが、彼らは帰ってくれないんだ』と困り顔。
工場の外では、このトラブルを取材にきたタンザニアのテレビ局クルーが
カメラを回しています。
やはりここはアフリカ、カメラに向かってのタンザニア人のスピーチはものすごい。
大勢の労働者がカメラに向かい、自分の意見をはっきりとよどみなく語ります。
いや叫んでいます。
私たちもカメラを回しインタビューを始めると、あっという間に
タンザニア人労働者に取り囲まれ身動きが取れなくなります。
私の隣にいた日本人コーディネーターは背負っていたバッグを、
おもむろに胸に回し両腕でしっかりと持ち直しました。
緊張と恐怖と興奮で彼らの話を聞いていると、どうも経営側の意見と食い違いが。
『会社側はいつも、明日払う明日払うと言っているが、今月はずっとそう言って
給料を払ってくれないんだ。仕事だって定期的にあると聞いたから
ここで働いているのに。もう信じられるか?』労働者の意見です。
そこで私は『そんなに嫌ならこの工場を辞めて、他で働こうとは
思わないのですか?』と質問しました。
労働者たちは『この日本人は何を言っているのか?』というような顔で私を見て
『それはない』と短く答え、また自分たちの意見を叫び始めます。
このことを後でタンザニア人コーディネーターに聞くと『彼らにとっては、それでも
良い条件の労働環境なのです。代わりになる良い仕事はないのです』と言われ、
自分の質問のセンスの無さを恥じました。
結局、我々は3時間ほどこの工場に滞在しましたが、工場長は現れませんでした。
世界の工場は中国・アジアからアフリカにシフトするのか?
タンザニア政府が推し進める経済特区、その一部のほころびを見た気がしました。
(以下次回へ)
2008年07月15日
タンザニア取材記(1)
先日行われた洞爺湖サミットに向けて、私はアフリカへ取材に行きました。
温暖化・食糧問題・貧困など、世界の問題のほとんどがアフリカ大陸に深い根を生やしているからです。
その一方でアフリカはいま、とてつもない速度で経済成長を遂げています。
かつての『暗黒大陸』が『成長大陸』へ。
その現場を自分の目で見て伝えたいと思ったのです。
しかし、『速ホゥ!』の熱心な視聴者の皆さんはご存じの通り、サミット期間中を含め私はしばらく番組をお休みしていました。
理由は、私が体調を崩し入院・手術となってしまったから。
自己管理に少なからず自信を持っていただけに、悔しく残念でした。
何より番組スタッフ、会社、視聴者の皆さんにご心配、ご迷惑をかけてしまったことは、私の心に残る大きな傷跡になりました。これからまた少しずつ、信頼を取り戻せるよう最善を尽くします。
今回の日記は、そのアフリカ取材について記します。
アフリカは確かに成長しています。
一方で私が感じたアフリカを、拙いこの文章で皆さんに少しでも伝われば良いのです
が...
日本から丸一日以上の移動時間をかけ、私たち取材クルーが向かったのはタンザニ
ア。
サファリ・キリマンジャロ山・ヴィクトリア湖など観光業が盛んです。
位置は赤道より南、インド洋に面しています。
いわゆる『サブサハラ』(サハラ砂漠以南の国)で、国民の多くが一日当たり1ドル以下で生活する最貧国です。
今回の取材を通じて感じたタンザニアの国民気質は、『時間という軸に縛られる概念が少ないこと』でした。
これは決して批判的なことではありません。彼らにとってはいたってスタンダードなことで、怒ることも少ないようです。
入国審査など、空港で2時間ほど足止めを食らいイライラしていたのも初日だけ。慣れてくるとレストランでオーダーしてから1時間30分でようやく最初の料理が出てきても、何も気にせず笑えるようになりました。
インタビュー取材などでも、8割いや9割はみな遅れてのスタート。
そのため我々の取材スケジュールもずれ込み、予定を翌日にずらすことも。それでも取材対象の方は、ふところ広く聞き入れてくれます。このあたりはアフリカンタイムの恩恵ですね。
そしてもうひとつ感じたタンザニア人気質は、『とにかくお喋りが好き』とくに男性がそうです。
現地の様々な企業に取材に行きましたが、みなさん同じように、まずは座って茶飲み話から始まります。
『まぁ座ってくれ。コーヒーを飲むか?よく来てくれたね。まずは我が社のこと説明しよう。思い起こせば1920年...』
こんな感じで始まり、30分間独演会です。
とても親切に、紳士的に対応してくれます。ありがたいのですが、ジャパニーズタイムで生活している私たちにとっては、とにかく時間がもったいない。次の取材が迫っている。
ある会社でのインタビューで、耐えかねた私は担当者の話を遮り、強引に質問をしました。
すると担当者は、即座に私の質問を遮り、さらに大きな声と迫力で話を続けてきます。
カチンときた私もさらに大きな声で質問。
こんなやり取りが続いたのち、結局担当者は質問に答えてくれませんでした。
ほとんどのインタビューで感じたのですが、質問に対して簡潔な答えは返ってきません。
まずは彼らの言いたいことを聞かなければならないのです。
こんな私を見かねたのか、現地の日本人コーディネーターが『赤平さん、タンザニアではいきなり本題の質問をするのは失礼になるんですよ。最近どう?とか、奥さんや子供はどうしてる?なんて話をしてからじゃないと、彼らはムッとしますよ』とアドバイス。
なるほど、時間に追われる日本人感覚では、この国では取材もままならないのか、と少し後悔しました。
(以下次回へ)

