勝村コラム
2019年6月25日(火) 栄養
おりは小6の時に、町内会の野球チームのキャプテンだった。もちろんチームの柱だった。(何がもちろんなんだろ?笑っ)
ソフトボールでは、準優勝。
決勝戦で、味方のびっくりするようなミスがなければ、 優勝できた。兄貴の時代のチームも、優勝候補だったが、 味方のまさかの二度の同じミスで逆転負けしていた。なんか、不思議な、今で言う負の連鎖を感じた。
優勝できない兄弟。笑っ
だから、 次はなにがなんでも絶対に勝つんだという強い気持ちで望んだ。ソフトボールの大会は終わってしまったが、 次は軟式野球の大会が待っている。
最後の大会だ。負けるわけにはいかない。すごい練習した。すこい練習した。こんな素晴らしく、仲のいいチームが負けるはずがない。ソフトボールの決勝での敗戦を、心に強く刻んだ。
誰のせいでもない。女神のちょっとした、いたずらなのだ。みんなの気持ちはずっと一つだった。
軟式野球の決勝戦。日曜日。監督はいたが、おりの父親がコーチをやっていた。やきゅパパ。かな?笑っ
母親は、試合になるとたまに応援に来た。当時のままたちは、そんなもんだった。ままだって、平仮名だ。親父は、日本橋にある老舗の佃煮屋の職人だった。
老舗の佃煮屋は親戚である。日本橋の三越が大きなお客様だったようで、 休みも三越にあわせて、月曜日だった。友達のお父さんは、みんな日曜日が休み。おりの父親の休みは月曜日。
なんか、切ない思いをしていた。試合当日も、親父は仕事だった。「決勝戦まで進んだら電話してくれ」と言われていた。チームはいい仕上がりだった。
おりはキャッチャーでキャプテン。ソフトボールでは、サードでキャプテン。
背番号を長嶋茂雄さんと同じ「3」にしたかったが、 フォーストが背番号「3」で、サードは背番号が「5」 と決まっていた。でも花形はサードだったので泣く泣く「5」番にした。笑っ。
当時ジャイアンツの「5」番は、ショートの黒江選手だった。
いぶし銀過ぎて、子供受けしない選手だったが、笑っ、 V9時代の不動のレギュラーで、素晴らしいショートだった。何故、軟式でキャッチャーをやったのか、 理由は忘れちゃったけど、自分からキャッチャーを選んだ。
今となって考えると、なんか、結果的にすごくよかった気がする。チームは順調に、決勝戦に駒を進めた。日本橋で働いている親父に電話で連絡した。職人は全部で、3人か4人くらいだったろうか?
親父は製造部長で、工場では中心だった。電話で結果を聞いた親父は、仕事を後輩に任せて、 店のバイクで日本橋から埼玉の戸田市のグランドへ向かったのだ。今みたいにギスギスしていない、牧歌的な時代だったんだね。
連絡してから小一時間ほどたって、 チームのユニフォームを着た親父が、バイクに乗って現れた。チームのみんなは、 わざわざ仕事の途中で東京から応援に来てくれた親父のおかげで、 さらにテンションが上がった。
決勝戦。結果は、見事に優勝。
本当はソフトボールで優勝したかった。完全制覇したかった。今でも悔しい。チームはみんな仲良しで、たくさん練習して、 本当にいいチームに育った。監督ともコーチとも、みんな仲良しだった。
素晴らしい仲間と、素晴らしい指導者。一生忘れられない、宝物のような思い出になった。キャプテンのおりが優勝旗を掲げて、全員で記念撮影をした。
もちろん、親父も一緒に。親父はそのままバイクで日本橋の職場に戻った。父親が誇らしかった。なんか、うれしくてうれしくて、涙が出たのを覚えている。そんな六年生の時に、沖縄で海洋博が開かれた。
埼玉の蕨市、戸田市、鳩ヶ谷市の三市から、 子供会でなんらかの活動で活躍した子供を、沖縄海洋博に、 格安で連れて行ってくれる企画があった。
当然のようにおりは選ばれた。
竹芝桟橋から、大きなフェリーで沖縄に向かった。当時の沖縄は、町ではドルもなんとなく通用していた。そんな時代。初めての船の旅行。
夜になると、空から星が落ちてきそうなほど、 星に手が届きそうなほど、びっくりするほど星が近くて、 びっくりするほど星が大きくて、 びっくりするほど星がたくさんあって、 どうしていいのかわからなくなって、 星を見ながら訳の分からない感情が湧いてきて、 自然に涙が出てきた。
それくらい感動的だった。
星がたくさんだったから、星って文字もたくさん使った。満天の星空もすごかったが、流れ星もびゅんびゅん落ちていた。こんなに流れ星ってあるんだって、とにかく驚いた。何もかもが初めての経験。このままずっと夜空を見上げていたかった。
太陽が登れば、照りつける陽の光が、痛いほど肌を焼き付ける。何時間経っても、海しかない。島影も見えない。いつまで経っても海しかない。海には、驚くほどの数の飛び魚が、びゅんびゅん飛んでいる。
飛び魚が、本当に飛ぶところも初めて見た。中には、100メートル以上飛んでく輩もいて、 千のナイフが見えない敵に向かって、 飛びかかっていくみたいだった。
あまりの飛び魚の数にも衝撃を受けた。たくさんのイルカが並走してきたり。あまりのパフォーマンスの多さに、目がぐるぐるした。埼玉の中でも、何もない、 日本で一番小さな蕨という町で生まれ育ったおりには、 自然の刺激が強すぎて、瞬きするのももったいないくらいだった。
沖縄に近づくにつれ、気候が変わってくるのがよくわかった。太陽光の強さ、温度湿度、空気。なにもかもが違う。
まるで別世界に紛れ込んでしまったかのような気持ちになった。このままだと、 初めて行った沖縄のことを延々と書き続けてしまいそうなので、 ここらでやめとかないと。笑っ
帰りは飛行機だった。(はやっ!)
飛行機に乗ったのももちろん初めて。初めて雲を上から見た、その美しさは、 今でも忘れることができない。とにかく、凄い経験をさせていただきました。話しを戻しましょ。
町内会の野球チームで活躍したおりの背中に、 地元の大人たちは甲子園という文字を見ていたに違いない。その期待を一身に背負い、中学生になったおりは、 サッカー部に入ってしまった。(大笑い)
中でも、親父の落胆は大きかったろう。笑っ
だが親父は、何も言わなかった。母親も、ほとんど何も言わなかった。今から考えると、高校に入った時も、就職した時も、 会社辞めた時も、芝居始めた時も、結婚した時も、 何も言わなかった。
なんでだろ?
思えば、未だに理由を聞いたことがない。
子供の応援は、なんでも出しゃばらずに、 積極的にしてくれてたけど、何かをやめたり始めたりする時に、 親父は何も言わなかった。今考えると、なんて素晴らしい親父なんだろ?
おりの娘は、23才になった。考えてみれば、おりも娘に何も言わない。おりの親父と違って、おりは娘とたくさん話をする。今でもとても仲がいい。娘の高校時代、娘の彼氏と娘と3人でお茶したこともある。
娘の大学生の時、娘と彼氏と、彼氏のお母さんが、 3人でおりの舞台を観に来たこともある。おりがチケット代金を払って。、、、なぜだぁ〜!笑っ
彼氏と娘が旅行に行く時も、なんにも言わなかった。昔、日本を代表するベーシストの吉田健さんと話した時に、 健さんは、娘さんの彼氏と、2人で飲みに行くよ。と言っていた。
ただでさえかっこいい人なのに、さらにさらに、 なんてかっこいい人なんだろうと感心した。普通ないでしょ?
なかなかね。
親は子供にどんなふうに接して行けばいいのかなんて、 誰も教えてくれないし、わからない。人のことは、参考にならないし、どこにも当てはまらない。そう、どんなことにも、正解はないのだ。ただ正解があるとしたなら、 いつも距離を置いて見つめていること。環境を作って、整えてあげること。
そして一番大事なのは、「愛」なのだ。
親のできることは、子供をしっかりと距離を考えて、 愛し続けることなのだ。おりは、野球をやっていた時のこと、 すべてがしあわせな思い出である。仲間、周りの大人たちも、未だに大好きである。
中学から始めたサッカーは、皆さまご承知の通り。未だに楽しくて楽しくてしょうがない。んで、今回のブレインは、フリーマガジン「サカママ」 のプロデューサー、堤秀樹さんと、読者モデルの現役ママ、 安井莉代さん。
内容は、そのまま。
サッカーをやっている子供のママたちのための、サッカー情報誌。このコラムで何度も書いていると思うけど、 おりも地元のクラブチームで、子供たちとサッカーをやっている。
ような、教えてもらっているような。
もちろんそこには、子供たちの練習を見学している、ママさん、 パパさんがいる。考えてみれば、そこに焦点を当てて見たことはなかった。パリ在住の後輩が、サッカーを子供たちに教えていて、 見学しているパパさんたちにもサッカーを教えていると聞いたこと はあった。
サッカー経験のないパパさんたちが、サッカーを始めることで、 体力がアップして、サッカーを理解することで、 子供と同じ目線の会話ができて、とても好評だと。だが堤さんは、パパではなく、ママに目をつけた。
そりゃそうだ。
日本は応援、見学に来るママの人数の方が、圧倒的に多い。そのママさんたちに、サッカーの情報を提供する。ママさんたちは、パパさんたちより仕事が多い。家事以外の、 サッカーで散らかった掃除や練習で汚れたユニフォームの洗濯、 普段や試合の時のお料理、お弁当、などなど。
そんな大変なことをこなしながら、 サッカーの情報を集めるなんて、至難の業である。初心者サカママのために、 ベテランサカママの体験談が掲載されていたり、 ベテランサカママのために、 サッカーの少しディープな情報が出ていたり。
仕事の多いサカママには、願ってもない情報誌なのだ。だが、問題もある。番組でもアナリストが体験談を何度も話してくれた。
親の干渉。
特にサッカー経験のある親が、 子供にサッカーのコーチのようなことをする。専門的な知識のある親ごさんたちに、特に多いそうだ。子供は、親のコーチングと、 クラブのコーチのコーチングの二つの説明を受ける。
子供は親に気を使い、クラブチームのコーチに気を使い、 プレーも思考も混乱して、パフォーマンスが驚くほど落ちて、 精神的にも不健康になる。親は子供のためを思って、一生懸命になる。
子供は親のため、コーチのために一生懸命になる。
クラブチームの抱える問題の一つである。誰も悪くない。この素敵な情報誌「サカママ」の役割は大きい。
子供たちが、サッカーが大好きで大好きで、 楽しくて楽しくてしょうがないという気持ちが、 一番大切だということが形になったものだから。
安井さんの素敵な笑顔、サカママさんたちの素敵な笑顔が、 子供たちの大切な栄養になっている。日本中のサッカーを愛する子供たちのママさんたちみんなに、 是非読んでいただきたい。
ソフトボールでは、準優勝。
決勝戦で、味方のびっくりするようなミスがなければ、
優勝できない兄弟。笑っ
だから、
最後の大会だ。負けるわけにはいかない。すごい練習した。すこい練習した。こんな素晴らしく、仲のいいチームが負けるはずがない。ソフトボールの決勝での敗戦を、心に強く刻んだ。
誰のせいでもない。女神のちょっとした、いたずらなのだ。みんなの気持ちはずっと一つだった。
軟式野球の決勝戦。日曜日。監督はいたが、おりの父親がコーチをやっていた。やきゅパパ。かな?笑っ
母親は、試合になるとたまに応援に来た。当時のままたちは、そんなもんだった。ままだって、平仮名だ。親父は、日本橋にある老舗の佃煮屋の職人だった。
老舗の佃煮屋は親戚である。日本橋の三越が大きなお客様だったようで、
なんか、切ない思いをしていた。試合当日も、親父は仕事だった。「決勝戦まで進んだら電話してくれ」と言われていた。チームはいい仕上がりだった。
おりはキャッチャーでキャプテン。ソフトボールでは、サードでキャプテン。
背番号を長嶋茂雄さんと同じ「3」にしたかったが、
当時ジャイアンツの「5」番は、ショートの黒江選手だった。
いぶし銀過ぎて、子供受けしない選手だったが、笑っ、
今となって考えると、なんか、結果的にすごくよかった気がする。チームは順調に、決勝戦に駒を進めた。日本橋で働いている親父に電話で連絡した。職人は全部で、3人か4人くらいだったろうか?
親父は製造部長で、工場では中心だった。電話で結果を聞いた親父は、仕事を後輩に任せて、
連絡してから小一時間ほどたって、
決勝戦。結果は、見事に優勝。
本当はソフトボールで優勝したかった。完全制覇したかった。今でも悔しい。チームはみんな仲良しで、たくさん練習して、
素晴らしい仲間と、素晴らしい指導者。一生忘れられない、宝物のような思い出になった。キャプテンのおりが優勝旗を掲げて、全員で記念撮影をした。
もちろん、親父も一緒に。親父はそのままバイクで日本橋の職場に戻った。父親が誇らしかった。なんか、うれしくてうれしくて、涙が出たのを覚えている。そんな六年生の時に、沖縄で海洋博が開かれた。
埼玉の蕨市、戸田市、鳩ヶ谷市の三市から、
当然のようにおりは選ばれた。
竹芝桟橋から、大きなフェリーで沖縄に向かった。当時の沖縄は、町ではドルもなんとなく通用していた。そんな時代。初めての船の旅行。
夜になると、空から星が落ちてきそうなほど、
それくらい感動的だった。
星がたくさんだったから、星って文字もたくさん使った。満天の星空もすごかったが、流れ星もびゅんびゅん落ちていた。こんなに流れ星ってあるんだって、とにかく驚いた。何もかもが初めての経験。このままずっと夜空を見上げていたかった。
太陽が登れば、照りつける陽の光が、痛いほど肌を焼き付ける。何時間経っても、海しかない。島影も見えない。いつまで経っても海しかない。海には、驚くほどの数の飛び魚が、びゅんびゅん飛んでいる。
飛び魚が、本当に飛ぶところも初めて見た。中には、100メートル以上飛んでく輩もいて、
あまりの飛び魚の数にも衝撃を受けた。たくさんのイルカが並走してきたり。あまりのパフォーマンスの多さに、目がぐるぐるした。埼玉の中でも、何もない、
沖縄に近づくにつれ、気候が変わってくるのがよくわかった。太陽光の強さ、温度湿度、空気。なにもかもが違う。
まるで別世界に紛れ込んでしまったかのような気持ちになった。このままだと、
帰りは飛行機だった。(はやっ!)
飛行機に乗ったのももちろん初めて。初めて雲を上から見た、その美しさは、
町内会の野球チームで活躍したおりの背中に、
中でも、親父の落胆は大きかったろう。笑っ
だが親父は、何も言わなかった。母親も、ほとんど何も言わなかった。今から考えると、高校に入った時も、就職した時も、
なんでだろ?
思えば、未だに理由を聞いたことがない。
子供の応援は、なんでも出しゃばらずに、
おりの娘は、23才になった。考えてみれば、おりも娘に何も言わない。おりの親父と違って、おりは娘とたくさん話をする。今でもとても仲がいい。娘の高校時代、娘の彼氏と娘と3人でお茶したこともある。
娘の大学生の時、娘と彼氏と、彼氏のお母さんが、
彼氏と娘が旅行に行く時も、なんにも言わなかった。昔、日本を代表するベーシストの吉田健さんと話した時に、
ただでさえかっこいい人なのに、さらにさらに、
なかなかね。
親は子供にどんなふうに接して行けばいいのかなんて、
そして一番大事なのは、「愛」なのだ。
親のできることは、子供をしっかりと距離を考えて、
中学から始めたサッカーは、皆さまご承知の通り。未だに楽しくて楽しくてしょうがない。んで、今回のブレインは、フリーマガジン「サカママ」
内容は、そのまま。
サッカーをやっている子供のママたちのための、サッカー情報誌。このコラムで何度も書いていると思うけど、
ような、教えてもらっているような。
もちろんそこには、子供たちの練習を見学している、ママさん、
サッカー経験のないパパさんたちが、サッカーを始めることで、
そりゃそうだ。
日本は応援、見学に来るママの人数の方が、圧倒的に多い。そのママさんたちに、サッカーの情報を提供する。ママさんたちは、パパさんたちより仕事が多い。家事以外の、
そんな大変なことをこなしながら、
仕事の多いサカママには、願ってもない情報誌なのだ。だが、問題もある。番組でもアナリストが体験談を何度も話してくれた。
親の干渉。
特にサッカー経験のある親が、
子供は親に気を使い、クラブチームのコーチに気を使い、
子供は親のため、コーチのために一生懸命になる。
クラブチームの抱える問題の一つである。誰も悪くない。この素敵な情報誌「サカママ」の役割は大きい。
子供たちが、サッカーが大好きで大好きで、
安井さんの素敵な笑顔、サカママさんたちの素敵な笑顔が、
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