勝村コラム

2019年3月10日(日) 誇り

中学で初めてサッカーを始めた。

もちろん、小学校でも遊びでサッカーをやっていたが、今から考えれば、それは酷いものだった。サッカー部に入ると、まず、用具を揃えなければならない。サッカーパンツ、こんな言い方だった。笑っ

ストッキング。まだ足かけってのがあった。靴下を履いて、野球のストッキングのように、靴下の上から履くやつだ。
サッカーウェアは、まぁ、体操着。冬も基本的に体操着だったが、ジェレンクのジャージを着てたかっちょいい先輩もいた。

そして、スパイク。
私の地元の埼玉の蕨市にあったスポーツショップは、ワラビスポーツ、アラトラというお店。私の中学では、だいたいこの二つのスポーツショップ、ではない。スポーツ店だった。笑っ
そこに流星の如く現れたのが、プロショップ・DOというサッカーショップだった。何故、蕨という大した町でもなく、サッカーが盛んでもない場所にできたのか、理由はわからない。それまでのスポーツショップのイメージを覆して、売り場が広いワンフロアで、シャレオツで、若いお兄さんが数人働いていた。当時は自宅を店にしているとこがほとんどで、お父さんとお母さんが基本店員さんだったから、それは凄いことだったのだ。そして、置いてある種類が豊富。

お父さんお母さんの店は、在庫を持たず、取り寄せが多かった。プロショップ・DOは、本当に夢のようなスポーツショップだった。蕨の町に誕生した、今で言うテーマパークだ。もちろん、ワラスポも、アラトラにも通いましたよ。

暇な時はサッカー部の仲間たちとしょっちゅう遊びに行った。サッカー用品を見るのが楽しみなのである。ワラスポも、アラトラも、メインは学校で使う物と、野球を扱った商品。そりゃ、サッカーもバスケも人気なかったからね。サッカー用品とか、メーカーって、こんなにあったのかと、興奮は止まらない。まだ、NIKEのサッカー用品などなかった時代。

もしかしたらあったのかもしれないが、記憶にない。それが今や世界一なのだから、凄まじい発展を遂げたメーカーだ。お店に綺麗にディスプレイされたスパイクを見て興奮した。アディダス、プーマ、オニツカ、のちにアシックスになり、DOでは、ゴーラ、ミツナガ、もちろん、コーチャー、そしてヤスダ。

ディスプレイの一番上には、アディダスのワールドカップと、ワールドカップ・ウィナー。当時は、西ドイツが強かったから、アディダスが一番人気だった。

プーマは、キング・ペレ。

後でわかったことだか、アディダスとプーマは、西ドイツの兄弟がそれぞれ作ったメーカーである。でもプーマは、ペレが着ていたのでブラジルのメーカーだと誤解していた。それが、ダスラー兄弟の確執を生んだことも後から知ったことである。

当時最高級の、眺めるだけの、光り輝くカンガルー皮の逸品。憧れのカンガルー。サッカー部に入って最初に買ったのは、伝説のコーチャーという、まぁ、運動靴。笑っ

コーチャーと聞いて、涙ぐむ同年代もいることでしょう。笑っ

素晴らしいサッカー用の運動靴だった。私が初めて買ったスパイクは、アシックスのインジェクター。取り替え式。いわゆる、ポイント。笑っ

お兄さんに相談したら、日本のメーカーの方が、日本人の足にあっているといわれた。何故アシックスにしたのかは、覚えていない。まぁ、お兄さんと話し合って、そうなったのでしょう。当時は純真だったし、足の甲が高かったので、その言葉を素直に受け入れた。

子供なりに、取り替え式の方が、長持ちして親の負担が少ないと考えた。なんて親孝行。まぁ、今考えれば、取り替え式も、固定式も変わらないんだけどね。笑っ

初めて買ったスパイク。黒光りするスパイクは、神々しかった。ずっと眺めていた。買っただけでサッカー選手になったような気がした。入部して数ヶ月たった。新入部員は、みんな一端のサッカー小僧になってきた。蕨一中は大したことないチームだった。

夢だけ大きくて、大した練習もせず、全国大会に出られると思っていた。試合のない日は、サッカー部の仲間の部屋に集まり、仲間の兄貴がサッカー雑誌とサーフィン雑誌を常に買っていたので、みんなで目を輝かせて読んでいた。その程度のチームだった。それが、今となっては逆によかったのだよ。

あなた。

その頃の知識が、この番組をやらせていただくことになったのだから、本当に不思議なことだ。もっとチームが強く、サッカーがうまかったら、雑誌を熟読したり、三菱ダイヤモンドサッカーを観る時間などなかったかもしれない。人生とは不思議な縁と運なのである。

そんな古き良き時代の、古き良きサッカー用品たち。

サッカーが根付いて行くかもわからない時代に、日本の明日のサッカーのために、日本のオリジナルのサッカーメーカーが、素晴らしい仕事をしてくださっていた。

今回は、ヤスダ。

メーカーが消滅してのはなんとなく知っていたが、それが2002年という、日韓共催のワールドカップが開催された記念すべき年だったとは。心が痛んだ。日本人の技術は本当にすごい。ヤスダのスパイクもクォリティーが非常に高かった。

日本のサッカーのために貢献してきた素晴らしいメーカーが、自国開催のワールドカップイヤーに消滅する。

1932年創業。ワールドカップイヤーの2002年、70年でその幕を閉じた。織田信長が死を覚悟して舞った敦盛を思い出さずにはいられない。人間五十年 化天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざはんは 口惜しかりき次第ぞ

20年の誤差はあるが、気にすることはない。織田も安田も、田で韻を踏んでいる。信長がは滅んだが、数百年後に織田信長の末裔がフィギュアスケートで日本を代表する戦士として蘇ったように、ヤスダも、ヤスダを愛してやまない一人の無茶苦茶な、傾奇者の戦士が、奇跡を巻き起こし、見事に復活させたのだ。

無理を通して、道理を完成させた。今回のコラムのようだ。その傾奇者は、株式会社YASUDA社長、佐藤和博さん。埼玉出身。プロショップ・DOは、いつのまにかなくなってしまったが、その遺伝子を感ぜずにはいられない。今回のコラムは、無理を通し過ぎる。

だが、その無理を通し、奇跡を呼び、老舗のYASUDAを復活させたのが、佐藤和博さんなのだ。J2の開幕を長崎までお邪魔して、観戦させていただいた。監督は手倉森さん。なんと、YASUDAと契約している。縁。

試合の後、偶然お店でスタッフと見事初戦に勝利し、盛り上がっている手倉森監督と遭遇し、合流。一緒に盛り上がった。その後ラインをいただいた。昨日はサプライズ登場...ありがとうございました。益々盛り上がりました!感謝。これからの長崎を注目してください、人間味あるチームを作り上げて、地域を巻き込んで盛り上がるチーム姿をお見せします。

素晴らしい地域、素晴らしいチームに、素晴らしい監督が加わった。長崎の髙田社長に関しては、違う場所で書きたいと思っているので、あえて触れずにおきます。その手倉森監督の足元を飾っているのが、YASUDA。お互い、最高のパートナーに巡り会った。

YASUDAは、その実力と、佐藤さんの情熱で、日本のサッカー界に貢献していくでしょう。日本の小さな工場で、お母さんたちが手縫いでスパイクを完成させる。大量生産は望めない。だが、そのひと針ひと針の思いが、YASUDAを選ぶ選手たちに届いていく。

そんなメーカーが復活した。日本人として、また一つ勇気と誇りを持てる。

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