勝村コラム

2019年10月20日(日) スポーツメイク

「化粧は心にするもの。見てくれに拘っていては美しくなれない」

石ノ森章太郎さん名作「化粧師」の小三馬の台詞である。映画化されて、椎名桔平ちゃんが演じた。桔平ちゃんはたくさんいい作品に関わっているが、おりはこれが一番好き。

映画は時代を大正にしていたり、小三馬のキャラが少し変えてあったが、原作を損なわず、素晴らしい映画だった。

本当の美しさはとは何か?

もちろん答えはない。化粧の意味を考えて調べたけど、現代と昔とでは意味合いが違うからなんとも言えないし、よくわからない。おりたちは、仕事柄、普段から化粧をする。化粧という言葉には、普通の人より馴染みがあって、ビビットに反応する。

化粧なんてどうでもいいと思っていたけれど、せめて今夜だけでもきれいになりたい。今夜はあたしはあんたに逢いにゆくから。最後の最後に逢いにゆくから

中島みゆきさんの名曲「化粧」

子供の頃、山口百恵さんのレコードを買いに行こうと思ったら、母親から百恵ちゃんは不良だから、淳子ちゃんにしなさいと言われて、理不尽な思いを抱えて、桜田淳子さんのファンになった。笑っ

昭和。そんな時代だった。熱心なファンではなかったが、子供心に、淳子ちゃんが変わったと思ったのは、中島みゆきさんの歌を歌い始めた頃かな。今までっぽくない。暗く、心にずっしりと響いた。淳子ちゃんが、すごく好きになった。

今でも、淳子ちゃんの「化粧」をYouTubeで見ると、必ず泣く。百恵ちゃんが好きだったけど、うちのピグモンママに、淳子ちゃんにしなさいと命じられて、淳子ちゃんを好きになったことを、今では感謝している。

なんだそれ。笑っ

このコラム書く前に、なかなか書けなくて、YouTubeで「化粧」を聴きまくった。不思議な事だが、淳子ちゃん以外の「化粧」は泣けなかった。みんな素晴らしい。心にずっしりくる。だけど、淳子ちゃん以外の「化粧」は泣けないのだ。淳子ちゃんの「化粧」を聴くと、自然に、何度も涙が溢れてくる。

なんざんしょ。

淳子ちゃんは、おりの中で、アイドルからアーティストに変わったのだ。

その最後のアイテムが、「化粧」。

まぁ、その後の淳子さんのことは何も知らないので、子供の頃の思い出だけね。いろいろな意味での「化粧」だったのではないかと思っている。おりも芝居を始めてから化粧をするようになった。たぶん、85.6年の名古屋の御園座という劇場で、蜷川さんの近松心中物語が最初だったと思う。

先輩に教えてもらっての、時代劇のメイクだった。着物着たり、カツラ被ったり、一番年下だったから、覚えることばかりで、スタッフや先輩たちに気を使いっぱなしでメイクのことを考える余裕も、金もなかった。

もちろん、メイク道具は自分で買うのだ。主役の平幹二朗さんのメイクをなんとなく真似して、シャドウとか入れてみんなに笑われたけど、舞台大きいし、舞台でゆっくり止まったりしてるヒマなんかなかったから、誰にも何も言われなかった。

その後も、当たり前のようにメイクをしていた。

第三舞台という劇団に移った。速射砲とか、マシンガンのように喋りまくるとか、激しく動きまわり、何曲もダンスがある、人気劇団だった。当然、驚くほど汗をかいた。スーツの色が変わるほど、全身に汗をかいた。

それも人気の一つだった。当然、メイクは途中でなくなってしまっていた。メイクってなんだろ?

と、その頃考え始めた。遅っ。

意味も考えずにメイクをしていたから、汗を異常にかく劇団芝居では、メイクが邪魔になってしまう。汗すごいから、途中、スーツで汗を拭うという暴挙に出る。プロデュース公演ではありえない暴挙だ。スーツの袖メイクだらけ。普通は、衣装さん怒って何もしてくれない。

そこは、劇団のいいとこでも悪いことでもある。スーツ買っちゃってるから、劇団の物だかんね。笑っ

しかも、観客動員とともに、スーツも二着用意していただけるようになった。最初の頃は、1日2回公演の時に、昼の公演終わったら、衣装さん、夜の公演まで汗を乾かすのがギリギリだったかんね。

そんなこんなで、これならメイクしなくてもいいじゃね?

と、考えた始めた。

んで、ある時から、メイクをするのをやめてみた。すごく楽になった。だけど、なんだろ?心の準備というか、少し、なにかが変わってしまった。頭というか、心というか、メイクしている時間というのは、何かに変わっていく、緩やかな、大切な時間だったのだ。

わかりやすいのが、特殊な役を演じる時のメイクは、やはり、特殊になる。そんな時は、素顔で衣装を着るのが少し恥ずかしい。足りていない。メイクをしないと、嘘になってしまう。

芝居なんて、元々嘘なんだけど、ちゃんと嘘つくためには、ちゃんと準備しないといけないのだ。変な例えだが、テレビのドッキリあるでしょ?スタッフとかの準備を考えておくんなまし。少しでも綻びあったら、すぐに嘘バレるでしょ?

変な例えだけどね。

演劇は総合芸術である。

様々な要素が集約されて、一つのキャラクターが生まれ、その一つのキャラクターが違う一つのキャラクターと出会い、物語が動き始める。虚構の世界に誘う魔法。それがメイクなのだ。もちろん、敢えてメイクをしないというアプローチもある。

だがそれも、メイクをしないという決意のメイクなのだ。素顔で虚構に立ち向かうという決意のメイクなのだ。第三舞台は、過剰に身体を駆使して演技を構築する。だが、もちろん止まっている時もある。

それは、敢えて止まるという、身体的表現なのである。止まるという、動きなのである。止まることは、非常に勇気がいる。メイクをしないということも、非常に勇気がいる。

稽古で、芝居が出来上がってくると、衣装やメイク、装置、照明、音響、もろもろを想定し始める。そして、どれも欠かせない諸刃の剣になるのだ。何故、諸刃の剣なのか?

想定しすぎてギチギチに考えてしまうと、他者とコミュニケーションが取れなくなる。中身がしっかり出来ていて、さらに余白も作っておかないと、武器になるはずのものが、枷になってしまうからだ。

国内のキレイな芝生に慣れていて、アウェイのコンディションの悪いピッチで力が出せないのと似ている。それほど、どれも大きな意味を持つアイテムなのだ。そう、冒頭の小三馬の台詞。

「化粧は心にするもの。見てくれに拘っていては美しくなれない」

やっとこの方程式を解くことが出来た。笑っ

今回のブレインは、元アーティスティックスイミング日本代表・青木愛さん。水泳のアスリートは、半端ない。おりの後輩に、競泳選手として200m・400m個人メドレーで日本記録を樹立し、オリンピックに2大会連続で出場、バルセロナオリンピックで400m個人メドレーで同種目日本人初のファイナリストになって、その後役者に転向した藤本隆宏がいる。

ありがとwikiくん。

藤本の肉体は恐ろしかった。柔軟で強靭。その体幹は大地に根が張っているようで、水に入るとイルカのようだった。昔みんなで温泉旅行行った時に、藤本と一緒に温泉はいったかんね。

身体なんか、あなた!しなやかな獣ですよ。

凄い筋肉。

見たことのない、無駄のない、強くしなやかな筋肉。クラシックダンサーの身体も見たことがあるが、その時の衝撃に似ていた。水球選手だった吉川晃司くんの背中も、見たことのない筋肉のつき方をしていて、見たことのない逆三角形だった。

昔、吉川くんと釣りに行った時に、陸地にいる時よりも、海の上にいる時の方が、イキイキとしていたと感じたのはおりだけではないはず。笑っ

青木さんも、そこにいるだけで体幹の強さがわかる。アスリートは、基本的に美しい。鍛えに鍛えられた肉体が、その力を余すことなく、最強の状態で動いている時の、尊い美しさ。

意識の外にある、流線的な美しさ。

見る者を圧倒する、選ばれし勇者の美しさ。

アーティスティックスイミングは、その美しさに、意識を加える。なんちゅう恐ろしさ。意識しなくても、美しいのものに、意識を加える。演劇では、無意識に近づくために意識する。しかし、意識が無意識を消してしまう。

この意識と無意識の戦いが、演劇なのだ。無意識を意識化させることが、もっとも難しい。演劇すべての基本になっている、スタニスラフスキーも、ここで悩んだのだ。

そんな恐ろしいことに、アーティスティックスイミングは挑んでいる。そして、成功させている。無意識を意識させる時に、必要なもの。その大切な鍵になるのが、メイクなのだ。

無意識の時の動きには、癖がある。

良くも悪くも。だが、人前でみせるパフォーマンスに、癖は必要ない。その無意識下の癖を取り除くために必要なのが、意識なのだ。誰が見ても美しく見える動きは、癖ではない。訓練で獲得した身体なのだ。

青木さんたちの凄さは、演劇でもなかなかたどり着けない、特別な場所に、鍛え上げた身体と共に到達している。日本のアーティスティックスイミングは、世界のトップクラスである。美しい青木さんが、美しい先輩から受け取った、美しいバトンは、美しい後輩に美しく受け継がれていく。

美しく纏めることが出来た。笑っ

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